2012年10月12日金曜日

先入観、固定観念、思い込み、偏見とは?教育(共育)などとの関係って?

「中小企業だから安心して働けないって、先入観とか思い込みとかがあるみたいなんですよね・・・ (;´д⊂) 」
「株式会社じゃないと信用できない、資本金が○万円以上じゃないと信用できない、だから取引できないなんて言われたことがあるんですよね・・・ (;▽;) 」

経営者のくせに!って顔を、従業員からされることがあるんですよね・・・、コレって偏見じゃないですか?経営者だって人間なのに・・・ ( ノД`)シクシク・・・ 」
「管理職になった途端、管理職なんだからって事あるごとに言われて、なーんか差別されているように感じることがあるんですよね・・・ ( ▽|||) 」

「うつ病 = 何をするかわからない危険なヤツって偏見とゆーか固定観念とゆーかがあるみたいで、うつ病だからって差別扱いされちゃったり、うつ病だからって排除されちゃったりするんです・・・ (;゜∇゜) 」
「ちょっと注意しただけなのに、思い込みが激しいのかパワハラって言われちゃうんです・・・ (;´Д`)ノ 」

中小零細企業 = 信用力がない、大企業 = 信用力があるって言われることもあるんですけど、それって偏見だと思うんですけど・・・ (´;ω;`) 」
「ヘンな先入観があるのか、中小零細企業だってだけで下請けいじめされて差別されちゃうんです・・・ ( TДT) 」

などなど・・・

「三方よしの経営相談」「自律型人材育成」「組織力の強化や向上」「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・

このような声をお聞きすることもあるんですが・・・
(;´・ω・`)

そもそもの話・・・

思い込み、先入観、固定観念、偏見などって、いったい何なんだろーか?
思い込み、先入観、固定観念、偏見などって、何が原因で起こるんだろーか?

思い込み、先入観、固定観念、偏見などのデメリットって、いったい何なんだろーか?
思い込み、先入観、固定観念、偏見などのメリットって、いったい何なんだろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?

思い込み、先入観、固定観念、偏見などって、都合の悪いことばかりなんだろーか?
思い込み、先入観、固定観念、偏見などには、都合の良いこともあるんだろーか?
それは、誰にとっては都合の悪いことで、誰にとっては都合の良いことなんだろーか?

思い込み、先入観、固定観念、偏見などによって、本当にトクしているのは誰なんだろーか?
思い込み、先入観、固定観念、偏見などによって、本当にソンしているのは誰なんだろーか?

などなどについて・・・  

一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。

ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/

んーと・・・

まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?


■ 偏見とは?
はてなキーワード
偏った考え方のこと。
もちろんそう指弾する行為自体が単なるレッテル、すなわち偏見である場合も少なからず存在する。


コトバンク
事実上の根拠なく,対象に対してもつ,なかば固定した意見。

人それぞれ,生きてゆくうえで,そういうかたよった意見をもつ。
強い偏見は,それをもつ人の人生に活力をあたえる。
偏見のない人生は,無気力な人生であろう。
いかなる情熱も,たとえば〈恋愛〉をとってみても,その対象をあるがままに見すえることをむずかしくする。

しかし,重大な困難は,偏見が,対象についての情報を刻々新しく得て軌道修正を行うことを不可能にしてしまうときにおこる。


■ 先入観とは?
Weblio辞書
前もってつくられた固定的な観念。
それが自由な思考を妨げるときにいう。
思い込み。先入主。先入見。


ウィキペディア
先入観は、対象認識において、誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。
そこから脱するには、すべての不確実なものを一度は疑うべきだとデカルトは述べている。

人間は、通常、直接に対象に出会う以前に、他者の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識や、そこから導かれる対象に対する態度・把握の様式を持っているもので、その結果として、ネガティブな認識や対象に対する評価がもたらされるようなものを特に「先入観」という。

人間の認識や認識に基づく行為はすべて、何らかの意味で、直接の対象認識の前に、予備的な知識や、認識・把握の枠組みが存在するものである。
哲学的には、客観である「もの自体」は認識できず、主観の「認識形式」というフィルターを常に通じて、人間の対象認識や、世界に対する行為は成立している。

しかし、このような主観認識のフィルターは、人間が世界を認識するにおいて、また他者と社会生活を送り、コミュニケーションを通じるにおいて、むしろ必要なものである。
「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と一般に噂されている人と、何か交渉する必要ができた場合など、この「予めの知識」に基づいて、慎重な言動を取ることで、対人接触がうまく進むということもある。

なにごとか未知のものに対し、予めに知識や評価の枠組みがあるのは、一般的には、生きて行く上で有用である。
しかし、予めの知識や評価の枠組みなどが、著しく客観性に欠けるもので、実際のありようと懸け離れている場合は、問題が起こることがあり、このような事前の知識や評価の枠組みは、「偏見」とも称される。

先入観は必ずしも偏見とは限らないが、事前に間接的な予備知識や評価を持っていることで、現実のありようについて、間違った認識や、妥当性に欠ける評価・把握をもたらすことがある。

「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と噂されている人と、実際に会い、一緒に仕事をしてみると、外見がやくざぽいので、「腕力をふるうような」感じがするだけで、実際は、腕力などふるうことはなく、またいかにも、話しかけにくい雰囲気であるが、実際には、寡黙なだけで、十分話し合いが可能であるということが分かったりすることがある。


■ 思い込みとは?
コトバンク
深く信じこむこと。
また、固く心に決めること。


Weblio辞書
(1) そうだとばかり信じきっていること
(2) それ以外にはないと固く心に決めること


ウィキペディア
思い込みとは、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じること。

思い込みをする人は、自分が正しいことを言うために、常識・道徳・前例・先入観・固定観念などを根拠にすることがある。

しかし、こうした根拠が他者と全く共有できないものである場合も珍しくなく、合理的な説得をしても信じてもらえない。
思い込みをすることが個人的な問題であることもあるが、集団的な思い込みというものもある。

思い込みは、頑固であるとか、悪い意味で使われることが多いが、目標達成の原動力にもなる。

周囲には無理だと言われながら、スポーツ選手がプロデビューを果たしたり、無謀と言われながら選挙への立候補を重ねて、ついに当選し、政治家デビューを果たすとき、往々にして思い込みが功を奏したのである。


■ 色眼鏡とは?
goo辞書
偏った物の見方。
先入観にとらわれた物の見方。


■ 既成概念とは?
コトバンク
広く社会で認められ,通用している概念。


この3つの日本語の意味なにが違うんですか?
「既成概念」という言葉は、「常識」という言葉と非常に近いです。
たとえば、長年、多くの医学者によって研究されたものの、治療方法が見つからなかった病気があったとします。

すると、「この病気は治らない」という常識ができあがります。
これが既成概念です。

しかし、その常識が覆されて治療方法が発見されることがあります。このことを「既成概念を破る」と言います。


■ 固定観念とは?
はてなキーワード
あるものが、こうあるべきだと考え、ほかの考え方は排除する思考傾向。


Weblio辞書
心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。


ウィキペディア
固定観念は、固着観念とも云い、心理学の用語で、人が何かの考え・観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないような観念を指す。

妄想型精神病における妄想のようなものも固定観念であり、また呪術に基づく迷信や、思想や宗教、文化慣習から来る固有の信念なども、常にそうではないが、固定観念となっている場合がある。

日常的な表現で、何かの「思い込み」を人が持っているとき、これを「固定観念に捕らわれている」と表現することがあるが、厳密には言葉の誤用である。
例えば、「鳥は飛ぶものである」という考えは、多くの人が持つ思いこみであるが、固定観念ではない。

鳥であっても飛ぶことのない例、たとえば、ペンギンやダチョウを示されると、一般に人は思い込みから脱して、「飛ばない鳥もいる」という考えになる。
ペンギンやダチョウの例を出して説明してもなお、色々な理屈を述べたりして、「鳥は飛ぶ」という観念や自己の主張をどうしても変えない場合には、固定観念となっていると云える。

人は未知なことや、よく知らないことについて、実証的な根拠に乏しい「思い込み・先入観」を持っていることが多い。

何らかの理由で思い込みに拘泥し、どのような例を出されても説明を受けても、思い込みを変えない場合には、この思い込みは固定観念になっている。


■ ステレオタイプとは?
コトバンク
様々な情報が氾濫する今日、人はメディアを通してしか事物を知ることはできない。
そして、普通の市民は事物について多様な情報を吟味し、正しく事物を知るだけの余裕を持たない。

メディアが伝えるイメージが固定化し、人は思考を省略してそのようなイメージに基づいて認識、判断を行うようになる。
そのような固定化されたイメージをステレオタイプと呼ぶ。

また、ステレオタイプを共有することは、人が社会の多数派に同調する際に必要となる。
例えば、ナチス時代のドイツで、ユダヤ人にも善人はいると発言することの危険さを思い浮かべれば、同調主義がステレオタイプを通して蔓延することが理解できるだろう。

これを権力者の側から見れば、ステレオタイプを作り出すことは世論を操作し、自らに対する支持を拡大する上で有効な手段ということになる。
9.11以降の「イスラム」、拉致事件発覚後の「北朝鮮」など、その種のステレオタイプの例は枚挙にいとまがない。

したがって、民主政治を健全に保つためには、ステレオタイプを打破する言説の余地を常に残しておく必要がある。

メディアの多様性や言論の自由が大きな政治争点となるゆえんである。


ウィキペディア
ステレオタイプは、元々社会学の用語で、紋切型態度とも言う。
印刷のステロ版(鉛版)印刷術が語源で、判で押したように同じ考えや態度や見方が、多くの人に浸透している状態を言う。

日本語では、思考や観念、ものの見方・捉え方、表現の方法などについてもステレオタイプが使用される。
決まり文句なども、類型的・紋切り型な思考のありようの表現であるのでステレオタイプである。

ステレオタイプは、現代では多くの人が持つ観念に、その代表的な例が存在する。
これらの観念は偏見や差別意識と関係し、先入観やタブロイド思考とも関連している。

「紋切り型」という言葉が示すように、個々人が抱く考え方・観念に個性が乏しく、同じような考え方やものの見方が、多数の人において類型化されて共有されている。

たとえば、A型は几帳面で気が利く、B型はマイペースで我が儘、O型は面倒見が良くて、AB型は変わり者で天才肌など。
日本では広く見受けられるが、科学的に立証された例は無い。

他にも、日本人女性は貞淑で夫を立てる、献身的などのステレオタイプが日本以外の国には存在している。
一方で性的に奔放で白人男性に弱い「ゲイシャガール」のイメージも一部にある。

日本人男性は仕事中毒で金儲けに熱心(「エコノミック・アニマル」)、勤勉すぎて過労死する。
ペニスが小さい、好色、男尊女卑、オタクなどのステレオタイプが欧米の一部に見受けられる。

なぜ、そういうステレオタイプな思考やものの見方が妥当と確信するのか、ということについても、メディアがそう述べているとか、まわりの人がみなそう言っているとか、自分自身で主体的に反省して吟味することがほとんどなく、外部の意見やものの見方をそのまま無批判に取り入れ、鵜呑みにしていることが一般である。

その為、観念や確信に客観的な根拠がなく、底が浅く、また複雑なものごとを単純化している結果、当人は十分に理解しているとの錯覚を持っているが、迷妄であって、固定観念になっている場合も多々ある。


■ タブロイド思考とは?
ウィキペディア
タブロイド思考とは、複雑なものごとを、皮相的に、単純化・類型化して把握する思考のありようである。

何が原因であるのかについて、深く考え分析すると単純に断言することができず判断が難しいような事象や出来事をステレオタイプな枠で捉える思考と云える。

社会と人間の事象は、きわめて複雑な連関構造を持っており、何かが起こったとき、その原因などを調べて行くのは、非常な手間がかかり、また妥当な認識に達するのも困難なことが多い。

これに対し、事象の本質的な複雑さを考慮することなく、また深く吟味したり分析したりすることなく、類型的な思考の分類や、決まり文句などで、その事象の原因やありようを理解したような気分になるのが、タブロイド思考である。

例えば、物価が高騰したという社会的な事象があれば、その理由は「大企業が金儲けに奔走しているためである」とか、それと対比的に「怠け者の貧乏人を支援するため、不要な社会福祉などがあるからである」などという決めつけが、この思考の類である。

ものごとの根本の複雑な相互関係の分析にまで至るのは、思考にとってあまりにも負担が多く、普通には困難である。

しかし、「よく分からない」では、自分の無能さが露呈されるようで好ましくなく、また「分からない」という状態も不安定な心理であるため、「その答えは、即ちこれである」というような単純明快な図式的回答を、批判的態度などなく受容するような思考のことを云う。


■ バイアスとは?
exBuzzwords
バイアスとは、偏見、偏りといった意味合いの言葉。
例えば、ある調査を行った際に、様々な要因により調査結果に偏りが出ることがある。
(電話調査を行うと主婦や学生が多くなる、アンケート調査では調査テーマに関心のない人や筆無精の人が脱落しやすい、路上調査では優しそうな人を選びやすい 等)

こういった偏りや、最初の思いこみ・偏見をバイアスと呼び、「この結果にはバイアスがかかっている」といった使い方をする。


はてなキーワード
バイアス、斜め、または偏りや歪みを意味し、転じて偏見や先入観という意味をもつ。
心理学や社会学などの統計から一般論を導く分野で使われることが多い。


■ 認知バイアスとは?
ウィキペディア
認知バイアスは、認知心理学や社会心理学での様々な観察者効果の一種であり、非常に基本的な統計学的な誤り、社会的帰属の誤り、記憶の誤り(虚偽記憶)など人間が犯しやすい問題である。

認知バイアスは、事例証拠や法的証拠の信頼性を大きく歪める。

認知バイアスは様々な観点から分類される。
例えば、集団状況に固有なバイアスもあれば(例えば、リスキーシフト)、個人レベルのバイアスもある。


■ 差別とは?
はてなキーワード
1. 比較して差異を明確にする事
2. 偏見や先入観などをもとに,特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また,その扱い。
3. 平等に対して、それぞれの物が異なる独自の仕方で存在している姿


ウィキペディア
差別とは元来、差をつけて区別することであるが、社会学においては特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為を意味する。

国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。
現代社会では、年齢、性別、性的指向、人種、民族、言語、階級、宗教、障がい等が一般的な差別の対象となっている。

人種差別や民族差別は古くから存在するが、問題視されるようになったのは近代以降である。

もともと人種差別・民族差別は単なる偏見の域を出ないものであったが、19世紀の西欧諸国では植民地交易を正当化するために人種差別が科学と結びつけられ、社会進化論や優生学を援用した疑似科学に根拠を置くイデオロギーとなった。
昨今ではアメリカ合衆国のアメリカ同時多発テロ事件とそれ以降の対テロ戦争、ロシアでのチェチェン紛争とイスラム過激派のテロ、ヨーロッパへのイスラム教徒の移民問題などから、欧米やロシアでのイスラム国家・社会の出身者に対する差別も深刻な社会問題となっている。

日本では、たとえば江戸時代の身分制社会にも実質的には身分差別が一般的であったが、それが社会問題化されるのは明治以降である。

現代においては、多くの国で憲法などにより人権の保障と平等が謳われている。
より直接的に差別をした者を処罰する法令がドイツやアメリカ合衆国などでは整備されつつある。

日本でも障がい者差別禁止法などの制定を求める声があるが、「かえって差別を固定する結果を招き適切でない」との反対意見もある。

これらの規定にもかかわらず依然として差別は存在しており、対応が十分とはいえないのが現状である。


■ 区別とは?
Weblio辞書
ある物と他の物の間に認められる特徴や違い。
それによって他の事物と区分する事。
あるものと他のものとの違いを認めて、それにより両者をはっきり分けること。


■ 排除とは?
Weblio辞書
おしのけてそこから除くこと。
取り除くこと。


■ 社会的排除とは?
ウィキペディア
社会的排除とは、何らかの理由で個人または集団が社会から排除される事、またはその状態をいう。

社会的排除に関する明確な定義は存在しておらず各国での認識も統一されていないが、概ね「理由の如何を問わず個人(集団)が社会から疎外されていると認識すること」と理解されている。

社会的排除が問題にされる理由は端的にいって、社会にとって有形無形のコスト増大要因になる可能性が高いことにある。
社会的排除の対象者は経済的に困窮しているケースが多く、公的扶助の対象となり社会保障費の増大や不法行為を行うことにより治安低下を招くことが懸念されている。

また、特に懸念される事態として社会的排除の対象となっている者の子供が生まれながらにして社会的排除の対象となり、階級の固定化がなされることがある。
出自による階級ができることは民主主義社会の根幹を揺るがす事態であり、各国政府とも対策を講じている。

共通する価値観で結びついた集団がその価値観のために社会的排除を被る、あるいは構成員の多くが社会的被排除者となった結果、集団として社会からの距離を置いたものを「社会的被排除集団」という。

日本において社会的排除は欧州とは全く異なった定義づけがされ、「個人が苦境に陥っているのは本人に原因があるのではなく、社会が原因である」という論拠として用いられることが多い。

対象とする「社会的弱者」は主張する者によって異なり、障害者であったり、経済的困窮者だったり様々である。
日本では「社会参加できるように個人を援助をする」ことに主眼がある。

社会保険から排除された不安定な派遣社員やフリーターになることを余儀なくされたり、また就職活動を断念し職に就かず教育も受けないニートと呼ばれる青年が急増した。
依然として個人の努力だけでは何ともならない状況に陥っている者も多く、不安定な生活から中々抜け出せない若者も目立ち、2012年現在においても深刻な問題となっている。

この問題が解決しない背景には、青年に対する社会的排除があると言われることがある。


【社会的排除の例】
・就業に対する障害
言語能力不足、知識・技能不足、人種差別、傷病、家庭問題、薬物中毒、精神障害、合理的配慮の欠如

・移動に対する障害
車両の不保持、住宅事情(公共交通機関の欠如)、傷病、身体能力の低下、アクセシビリティーの不足

・健康・安全に対する障害
住宅事情(経済的転居能力の欠如)、治安悪化、傷病

・差別的態度と待遇
人種、政治的意見や信条、性別、身分、出身、宗教、移民、性的指向、性自認などに由来、ヘイトスピーチを含む

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で・・・

次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?


人生の99%は思い込み
思い込みは、「かけていることすら気づかないメガネ」のようなものだ。
自分ではかけているつもりはないのに、そのメガネを通して世界を見ている。

思い込みを定義すると「合理的な根拠がなく、あるいはしばしば誤った根拠に基づいて、それと自覚せずに断定・確信・前提としている心の働き」となる。

【思い込みの特徴】
・あまりに「自明の理」であり、当たり前すぎて、それがあることも意識しない
・気づかないうちにそれがあることを、前提してしまっていること
・本人にとって疑う余地がないこと
・他の選択肢の可能性を考えないこと
・したがって根拠を問う必要性さえ感じないことなど

ようするに、あまりに当たり前で本人はそれを疑う余地がなく、他の選択肢を考えないようなことだ。

例えば、「一流大学に入り、一流企業に就職すれば、人生勝ち組だ」という考え方。
これも思い込みだろう。

一流大学に入り、一流企業に就職した人でも、会社での人間関係がうまくいかなくて転職を繰り返す人もいれば、会社を辞めて引きこもりになる人もいる。
その逆に、高卒で働きに出て結婚して家庭を持ち、幸せに暮らしている人もいるだろう。

幸せになれるかどうかは、大学の偏差値や会社の規模では決められないのだ。

また、「お金持ちになれば幸せになれる」というのも思い込みである。
お金はただの紙だ。

ただみんなが信用しているから物と交換できる便利なものではある。
そんな紙をたくさん持っているからといって幸せになれるというのは、ただの思い込みなのだ。

そもそも「こうしなければならない」「こうあるべきだ」というのは、私たちが勝手に抱いた「思い込み」である。

誰も「そうならねばならない」とは言っていない。
仮に親や教師が「こうあるべきだ」と言ったところで、それに従うかどうかだって、その人次第なのだ。

つまり、従うと決めた時点で、「親や教師は正しい」という思い込みに囚われている。

決まりかけた人生を変え、脚本に支配された人生を変えたいと願うのであれば、まずそれを成り立たせている「思い込み」を外すことが必要なのだ。


死にたいと思うくらい失敗してようやくわかった
今までずっと一人で生きてきて、自分に降りかかる無理難題は全部自分で解決しなければと思っていた。

そう、誰に頼る事なく。
苦行を一人で成し遂げてこそ、苦労はしてこそだと思っていた。

だけど今は「それは違う」と言える。

苦行からはあまり逃げるべきじゃないとは思う。
でも、一人でそれを全て抱え込む必要なんて、一つもなかったんだ。

誰かに弱音を吐きながら、誰かに寄り添いながら、誰かに頼りながら生きていってもいいんだと、その事が死にたいと思うくらい失敗してようやくわかった事なんだ。

当たり前だろって、そう思うだろ?
でも俺はそんな当たり前の事すらわからなかったんだ。

頼る事は恥ずかしい事なのかもしれない。
でも、辛い事を全て自分一人で抱え込む必要なんてどこにもないんだ。

人には頼っちゃいけないと、そう思い込んでいただけだったんだ。

俺は無力だ。
一人じゃどうする事もできない。
歴史なんて微塵も変えることはできない。

だからもう少し現実を見て、人に頼ろうと、手を取り合いながら生きていこうと、そう思ったんだ。


人生の「レール」なんて幻想に過ぎない
大学を卒業して、就職して、30歳のちょっと前に産休からの出産して、35歳くらいからは要職について、定年まで仕事する。

そんな人生なんだろうな、とどこかで思っていた。
それが私にとっての「レール」だった。

それが完全に幻想で、ある一種の固定観念であると心から認識できたのは、やっとここ最近。
いろんな人たちの考え方に触れながら、やっと認識が変わってきた。

レールなんてそもそもなかった。
しかも思い描いていたレールに沿った人生って、案外つまんなかった。

勝手に妄想したレールに沿わせて自分を抑え込んでまで生きることは、全くなかった。

固定観念のレールに沿って生きるのは実は幸せじゃなくて、人それぞれ自分の生きやすい仕事とか暮らしを、固定観念のレールを取っ払って生きてみるのが実は面白いし幸せな時間を増やす近道なんじゃないかしら、と最近では思います。

レール外れて生きてるような気がしてたことを、今やっと恥ずかしく思わなくなった、というか。


どうしてこんなの信じてるの?
この動画はいかに人々が知りもせずに悪としている現実が分かる。
そういう人達が悪とか殺せとか言ってしまう。

実験は聖書のカバーをコーランに差し替え、聖書のとんでもない一節を紹介するというもの。
これは聖書をコーランと偽って、聖書の一節を読ませてみた動画。
紹介した聖書の一節は以下のとおり。

最初に思ったことを聞いてみると、

「これはとんでもない話だよ」
「どうしてこんなものを信じてるの?私には理解出来ないわ」
「聖書のほうが残酷さは少ないし平和的」
「世界は変化しているし、彼らはそれに順応すべきだと思う」

実はこれ聖書なんですと伝えると、

「な、何だってぇー!!」
「本当に聖書なの!?」
「俺は偏見のかたまりだったよ」

「いつも偏見的にならないように努めていたのにどうやら既に偏見野郎だったみたいだ。無意識のうちにな」
「メディアの影響が強かったと思うわ」


無意識バイアス
バイアスとは、シンプルに言うと育った環境や文化、経験などさまざまな要素からなるフィルターのことで、意志決定の際に避けては通れません。

無意識でバイアスがかかることもあり、正確な判断を下すことを困難にしてしまいます。

無意識のバイアスに打ち勝つには、会社の成功とは何か、履歴書を送ってきた人が会社に何をもたらすのか、をしっかりと理解する必要があります。

例えば、名前は重要ですか?
重要ではありません。

住所、学歴も関係ありません。
年齢は仕事のパフォーマンスに関係ありません。

結果として履歴書でみるべきことはほとんどないんです。


「未来を変えるちょっとしたヒント」
人や組織は「知らない」という状態を恐れるが、真に恐れるべきなのは「知った」という思い込みです。

「知った」と思ってしまうことにより、他の可能性に目が行かなくなってしまうからです。


「脳はなにかと言い訳する」
人はなぜ思い込みをしてしまうのでしょうか。

たとえば、目の前にあるものを、これはコップだろうか、紙だろうか、鉛筆だろうかと、毎回一つひとつを疑っていたら大変です。
もっといえば、哲学的に、「コップとはそもそも何ぞや」などと常に考えこんでいたら、日常生活に支障が出ます。

それよりも、ひと目見て、「これはコップだ」と一瞬で判断して、それ以上は深く考えないでおくほうが、ほかの重要な作業に打ち込めるので簡単です。
そんなわけで、先入観や思い込みによって、脳は次々に入ってくる情報を素早く処理していっているのです。

しかし、これは反面、それによって通り一遍の見方しかできなくなってしまうことにもなります。
「迅速な情報処理」と「マンネリ化」というトレードオフの絶妙なバランスの中に、脳は存在しているのです。

それゆえに私たちは日常において注意が必要になります。

そうだと思い込んでしまったら、その思い込みから逃げることができなくなってしまう不自由さ、先入観に機能が縛られてしまう危険性を伴っているということです。

逆に言えば、新しい発想、人とは違う個性とは、先入観や思い込みだけで流されてしまわないで、ほかに何か可能性がないだろうかと考えていくところから出てくるのかもしれません。


「やっぱり変だよ日本の営業」
欧州のある古い教会での話です。

昔、教会の神父が野良猫を飼い始めました。
彼が祭壇の前でお祈りするとき猫が彼に悪戯したりするため、お祈り中には猫を紐で祭壇の脚につなげるようにしました。

やがてこの神父が亡くなり、二代目の神父がその猫を世話して、同じようにお祈り中に祭壇の脚に猫をつなげるようにしていました。
三代目の神父はいつも猫を祭壇の脚につなげる先輩神父のことを思い出し、自分も猫を飼って同じようにお祈り中に猫を祭壇の脚につなげていました。

四代目の神父は面倒くさがり屋で、生きた猫ではなく石の猫を作り、祭壇の脚の横に置くようにしました。
そして、五代目の神父は、床に置かれている石の猫を邪魔だと思い、祭壇の上に置きました。

そして六代目以降の神父たちは、常に石の猫に向かってお祈りするようになり、いつのまにかこの教会では、その石の猫は祭壇上の神聖なる存在になっていたのです。
今では誰もその経緯を知りませんし、その存在意義を問おうともしません。

これが「ストーン・キャット」の話です。

我々人間は、いつもやっていることを必要以上に神聖化する癖があります。
長く続けてきたことに対しては、必ず意味があると思い込んでしまいます。

つまり、その時代や状況に応じてたまたまできた制度や仕組み、方法などをしばらく続けると、まるで神聖なルールのように思い込み、誰もその存在理由と合理性の是非を問わなくなります。

企業には多くの「ストーン・キャット」が存在します。
長い間、我々はそれが必要だと信じ込んできたところに大きな問題があります。

今の時代に特に必要のないものや代用できものであっても、いざ変えるとなると怖くなってしまうのです。


「「判断力」を強くする」
脳では省力化のメカニズムが発達しています。
その脳の省力化のメカニズムの一つが「単純化」です。

単純化にもいろいろな方式があります。
似ているものを共通のパターン、グループとして整理、理解する単純化の方式もあります。

しかし、時間短縮のための単純化とは、脳内処理を一部省略することなので、ときおり、そのこと自体が判断ミスの原因になってしまうこともあります。

「イタリア人は陽気」「高額の商品は高品質」「理系の人は論理的」
一方、イタリア人にも陰気な人、高額でも低品質な商品、理系出身の人でも非論理的な人がいるはずです。

脳のパターン化による単純化が悪さをするケースに限り、私たちはそれを「偏見」と呼んだりします。
脳の「単純化」は判断時間を短縮するための重要な働きなのですが、時にはそれが判断ミスを誘うのです。

一部だけに注目して、過剰に単純化して解釈する誤りは日常茶飯事です。
「単純化」は脳の大切な働きですが、ときおり誤作動して私たちを判断ミスへと誘うのです。


「疑う力」
数字を見るとき、とくに気をつけたいのが「データの出所」と「言葉の定義」です。

信憑性の低いデータを使っていたり、言葉の定義が曖昧なことも珍しくありません。
どこかのデータをそっくり引用し、かつ定義だけは抜け落ちているといったこともあります。

普及率は、「あなたは、まだ使っていないのですか?」「時代に乗り遅れていますよ」「もう購入したほうがいいですよ」といったイメージを相手に与えたいとき、よく使われる数字です。

「普及率」に騙されないためには、まず周囲を見渡して、数字と実感が合っているかを検証する必要があります。
実感と違う場合、数字は事実でも、じつは金額ベースだったとか、特殊な母集団を調べた結果だったということが少なくないのです。

数字でよく混乱する例として、農林水産省が発表している「食料自給率」も有名です。
「日本の食料自給率は40%」といった数字をよく見かけます。
そこから「日本の食料自給率は低い。もっと高めなければ、日本の食は危ない」といったキャンペーンが張られたりもしています。

あまりにも多くの学者が指摘するので、最近では農水省も「カロリーベース」という但し書きをつけるようになりましたが、じつは世界で食料自給率をカロリーベースで出している国は日本ぐらいで、ほかにはほとんど例がありません。
多くの国が使っているのは、「生産額ベース」です。

生産額ベースで見ると70%になりますが、「70%」と聞けば、それほど低いとは感じません。
危機感を煽って食料自給率をもっと高めたいと思っている人たちにとっては、生産額ベースというのはあまり使い勝手のいい数字ではないのです。

カロリーベースによる食料自給率では、誰でもおかしいと感じられる数字も出てきます。
たとえば、卵の自給率はわずか10%しかありません。

つまり90%が輸入というわけですが、それほどの卵を外国から輸入しているという話を聞いたことがありません。
そのカラクリは、カロリーベースの場合、「餌の自給率」も含むことにありました。

あえて飼料自給率を考慮した値を発表するのは、その時々に応じて、自分たちに都合のいい数字を使おうという意図があるように思えてなりません。

「平均値」という指標は、注意しないと無意味な場合も少なくはありません。

たとえば50点を取った人はクラスに2人しかおらず、残りは0点と100点の人が半々という集団も平均は50点になりますが、これは「平均点は50点」と聞いたときの私たちのイメージとは違うでしょう。
センター試験の数字も、平均が意味を持たないものの一つだといえるでしょう。

平均点だけを見るのが無意味というのは、合否を決める側の大学や企業にもいえます。

平均点だけを見ても、その人の実力はわかりません。
平均点だけで合否を決めると、まったく予想外の人間が入ってくることにもなるのです。

「平均」が実態を表していないもう一つの例として、「日本人の平均貯蓄額」があります。
生活という面で考えるなら、貯金だけでなく負債もセットで見ることが大事です。

そうした実態を無視して、ただ「日本人の平均貯蓄額」議論をするのは非常に危険です。
現実の社会は、「平均貯蓄額がいくらだから、日本人の暮らしはこうだ」と言えるほど単純なものではありません。

短い言葉で数字を説明したときは、どこか怪しいと思ったほうが賢明です。

人は情報が少なく、自分で検証が難しい問題について、「権威」の言うことを信じたがります。
人が無条件に信じてしまう「権威」には、「警察官」「医者」「大学教授」「人気タレント」などがあります。

これら「権威」の言うことを、多くの人は無条件に信じます。

ステレオタイプな権威への妄信が、「疑う力」を停止させ、思考停止に陥らせる一つの原因です。

ほかにもステレオタイプな考え方の例として、「東大生 = 真面目」というものや「マスコミ = 権威」というものがあります。
さらに多くの人が思い込みがちなステレオタイプとして、「官僚 = 優秀」があります。

逆に言えば「権威」に対して強くなれば、「疑う力」は向上します。

たとえば国が発表したからといって、正しいとは限らないと考えるなど、つねにそういう思考の癖を身につけておくのです。


「「すみません」の国 」
欲求や価値観がものごとの見え方を左右することが、心理学実験によって実証されている。

たとえば、昼食後の満腹時の人たちと、朝食を抜いて昼食を控えた空腹時の人たちを対象に、うまそうなステーキのスライド写真を見せる実験をすると、空腹時の人たちの方がステーキが近くにあるように感じている。
また別の実験だが、さまざまな曖昧な形をスライドで見せると、空腹時の人たちの方が食べ物に見えることが多い。

あるいは、同じ人物が、5つのグループの人たちに対して、学生、実験助手、講師、助教授、教授というように別々の地位のもとに紹介され、おおよその身長を判断させるという実験がある。
各グループごとに推定された身長の平均値を算出したところ、地位が高く紹介された場合ほど、身長が高く推定されていることがわかった。

価値があると思うと大きく見えるというわけだ。
身長のような物理的なものの知覚でさえ、これほど主観的なのである。

普段の私たちのものごとの見方がいかに主観的なものであるかは、容易に想像がつくだろう。

どんなものごとも多義性をもつこと。
そして、視点によってものごとの見え方が違う、つまりものごとのもつ意味が異なること。

そうしたことをうっかり忘れると、自分だけが正しいという思い込みが頭をもたげ、自分と違った見方をする人を否定したり、攻撃したりすることになる。


「日本語教師のための異文化理解とコミュニケーションスキル」
先入観を持たないことは大切だとよく言われます。
相手の文化に対して前もって知識を習得とておくことが事前の思い込みにつながり、異文化理解の妨げになると感じている人もいるでしょう。

確かに事前の思い込みは現実を正しく把握することに影響を与えます。

しかし、私たちは特定の文化に対して知識がないと思っていても、すでに日常の中で習得した何らかの思い込みを持っています。
白紙の状態の人はいません。

それよりも大切なのは、相手の文化に対してできるだけ多くの知識を得た上で、同時に、自分の知識がごく限られたものであり、一般化されたものであり、現実に自分が遭遇するものとは異なる可能性があることを十分に認識することです。

この認識がないと、自分の得た限られた情報を普遍化しすぎて「ステレオタイプ」を形成してしまいます。
たとえば、「○○人は謝らない」という思い込みから、状況、条件、個人の性格などを無視した解釈をしてしまうのです。

ステレオタイプ化の落とし穴を避けるためには、まず、判断を保留して、客観的に事実を把握しようと試み、それぞれ可能な意味解釈を試み、結論を保留することです。
そして、できるだけ正確な解釈をするために、さらに情報を収集する努力を惜しまないこと。

せっかちに間違った結論を出すよりも、急がば回れで、このような配慮ある行動をとることのほうが異文化理解に役立ちます。

異文化理解の態度は異文化に関する知識が豊富なだけでは育ちません。
頭も大切ですが、心と体が異文化に開かれていることがもっと大切です。

人によって考え方、感じ方、やり方がいろいろあると考えている人は、自分の考え方、感じ方、やり方を固守しません。
異文化と接するとき大切なのはこの態度です。

正しい答えは一つしかないと考えるのではなく、いろいろあっていいのだと考える。
これは相手に一方的に同調したり、同化したりすることとは明確に異なります。

自分の考えをしっかり持ち、相手に分かるように説明できなければなりません。
いろいろな理屈があるということを受け入れられるだけの頭、心、体を土台にして、しっかりとした自分の考えを持っていることが肝心です。

この幅があると相手の気持ち、感情に共感できるようになりますし、相手の考え方ややり方も受け止められるようになります。


「パラダイス鎖国」
過去にはアジア人に対する明らかな人種差別があった。
かといって、マジョリティとまったく同じ扱いを受けているわけではない。

「なんとなく親近感がない」という「無関心の壁」がある。

生活感覚でいうと、相手と話していて、こちらが水を向けても話に乗ってこない。
話題が広がらない、という「話の接ぎ穂がなくなる」感じである。

全国版テレビやマスメディアでのアジア人に対する低い扱いを見ていると、私の感じる「無関心の壁」が、必ずしも例外ではないと考えることができる。


「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
人はなぜ、弱い相手に攻撃的になるのだろうか。
人は自分よりも相手の社会的立場が高かったり、力が上ということが分かっている場合には無意識に攻撃行動を抑制しようとする。

しかし、逆に自分よりも低い、ないしは弱いと認知した場合には躊躇なく攻撃行動に出る傾向がある。
また、自分の正体が隠せるという匿名性が高くなればなるほど、攻撃性は増すことになる。

これが、無意識に近い状態で弱者に向けて攻撃的になってしまう理由である。

更に言えば、権力や力を持った人間は、ちょうど拳銃や刃物などの武器を持った人間と同じで、それを使ってみたいという衝動に駆られがちである。
だから、力や権力を持った人たちがそのパワーを示したいという衝動が、往々にしていじめに更に拍車をかけることになる。

いじめというものは加害者が意識しているかどうかは別として、相手を弱いと見て侮ることからはじまっている。

見方を変えるという点で言えば、立場が人の性格を変えるということも忘れてはいけない。

つまり、管理職など、ある程度の役職につくことで、「アイツは人柄まで変わってしまったのではないか」などと言われる人は決して少なくない。

役職になりきる人は意外に多く、主体性のない人間ほど、立場や地位に同化してしまい振り回されがちである。
会社色に染まりやすい人は、概して思い込みが強く融通がきかず、上を気にして、下に対する気配りができない人である。

そして、逆になりきるだけに、その役割が果たせない場合には、気の毒なほど落ち込み、部署の業績が落ちれば、簡単に左遷されることも十分考えられる立場である。

また、自分の立場を有利にするためには部下の教育も行わなければならず、優秀な部下を持った場合はともかく、指示に従わないわがままな部下を持てば、その負担は更に重いものになり、ストレスも溜まる。

いずれにしろ、このような上司は、パワハラ的な資質を発揮しがちなことには注意が必要だ。
上を見て下を怒鳴ったり、自らのストレスを他人に転嫁することで自らのバランスを取るしかない立場だからである。


「おっちゃん、なんで外で寝なあかんの? ― こども夜回りと「ホームレス」の人たち」
野宿をしている人にとって、寝ているときに火をつけられたり、エアガンで撃たれたりするのは、とてもおそろしいことです。
ぼくが知っている人は、野宿をしていたら、突然、目をナイフでグサッとさされたそうです。

大阪市の日本橋というところで、野宿をしながらアルミ缶を集めている人がいました。
アルミ缶集めの仕事に疲れて歩道にダンボールをしてい寝ていたそうです。
そして、気がついたら下半身がバーッと燃え上がっていました。
そのとき、「ヒャハハハ」という笑い声が聞こえたそうです。

東京都では中学3年の男の子たちが、野宿をしていた65歳のおじさんの頭を鉄パイプで殴り、脳挫傷などの重症を負わせました。
少年たちは、おじさんにコンクリートのかたまりを投げて、「死ね」「生きている価値がない」と言いながら材木をぶつけて、顔に消火器をふきつけたといいます。

野宿をしている人を襲うのは、たいてい、10代の、小学生から高校生の男の子のグループです。
多くの場合、襲撃をしに来る子どもたちと野宿をしている人との間に、ケンカやトラブルがあったわけではありません。
野宿をしている人にとっては、いつ、どういう子どもが自分を襲いに来るか、全然わからないのです。

それでは、なぜ子どもたちは野宿者を襲うのでしょうか?
それは、とてもむずかしい問題です。

ただ、ぼくは、その原因は、大きく言うと2つあると思います。
ひとつは「野宿者への偏見」、そしてもうひとつが「子どもたちの生きづらさ」です。


○ 野宿者への偏見
辞書には「片寄ったものの見方・考え方。公平を欠いている意見」と書いてあります。
その例を挙げると、「障がいがある人はみんな、ほかの人にめいわくをかけている」「女の人は男の人より能力がない」などです。

こういう考え方は正しくないし、とても一方的です。
だから、そう言われた人は、とてもきずつきます。
けれども、世の中にはこういう「片寄った見方」がなかなかなくなりません。

それと同じように「野宿をしている人は危ない人だ」「何をするかわからない困った人たちだ」と考える人が、大人にも子どもにもたくさんいます。
たとえばぼくは、小学校から中学校、高校で授業をするとき、生徒にアンケートをすることがあります。

そうすると、いろいろな答えが集まります。
たとえば、「わたしのお母さんは、駅の近くのホームレスの人にごはんをときどき食べさせてあげたり、相談に乗ったりすると言っています」と答える生徒もいます。

でも、いちばん多いのは、「野宿をしている人を指して『あんな風になりたくなかったら、もっと勉強しなさい』と言われた」という答えです。
ほかにも、「わたしのお母さんは『ホームレスとは目を合わせてはいけません』と教えてくれました」というものがあります。
「ぼくのお母さんは、『ホームレスから話しかけられても無視しなさい』と教えてくれました」というものもよくあります。
(なぜかお母さんが多いようです)

これは、ひと言で言うと「ホームレスとかかわるな」ということです。
大勢の大人が、子どもと野宿者が会うと「子どもが危ない」と思っているようです。

でも、実際には、野宿している人は子どもからよく襲われていますが、逆に、野宿している人が子どもを襲ったという話はほとんど聞いたことがありません。
それなのに、こうして「目を合わせるな」とか「無視しなさい」などと言われるのはなぜでしょうか?

これは決していい例ではないのですが、たとえば、親が子どもに「障害者から話しかけられても無視しなさい」と教えたとしたら、どうでしょうか。
それは、とんでもないことだと思います。
あるいは、「障害を持っている人と目を合わせてはいけません」と教えたとしたら、もちろん、それもまちがったことです。

だから、ふつうは、大人はそういうことを言いません。
けれども、仕事がなくなって住むところを失った、野宿をしている人たちについては、こういうことが、よく言われています。

子どもは、小さいときから家族の人たちに、ホームレスの人と「かかわらない方がいい」「しゃべっちゃだめ」といったことを何度も言われると、「ホームレスの人たちは危ないんだ」「邪魔で迷惑な人たちなんだ」と思ってしまうのかもしれません。
そう信じてしまって、その中には「ホームレスを襲うのは悪いことじゃないんだ」と思う子がいるのかもしれません。

つまり、大人の「偏見」が子どもの襲撃を後押ししているのではないかと思います。
野宿をしている人たちの話を聞くということが、偏見をなくしていくために、とても重要なのです。


○ 子どもたちの生きづらさ
こうした「偏見」のほかに、子どもや若者が野宿している人たちを襲う理由としてもうひとつ、子どもたちの「生きづらさ」の問題があると思います。
生きている中でのつらさ、苦しさが、ほかの人に対する暴力につながってしまうことがあるのです。

2002年に、埼玉県の中学生たち3人が、野宿をしている45歳のおじさんを鉄パイプや材木、鉄板などで殴り、ブロック塀に頭を打ちつけて殺しました。
その中学生3人はすぐにつかまりましたが、調べてみると、その3人は、意外なことに、この事件意外に暴力事件を起こしたことはなく、友だち同士で殴りあったこともなかったということがわかりました。

リーダーの中学生はスポーツがよくできて、人権の標語コンテストで表彰されたこともありました。
裁判で、もう1人の中学生は「なぜやったのか。友だちの行動を止められなかったのか」と聞かれて、「一緒にいてやらざるを得なかった。やらないと仲間はずれになる」と答えたそうです。

リーダーの中学生は、人権の標語で表彰されるほどなので「偏見を持つのはよくない」ということは知っていたと思います。
もちろん「人を傷つけてはいけない」ということも知っていたでしょう。

それでも、この少年たちは野宿をしている人に対してとてもひどい暴力をふるって殺してしまいました。
それは、とても不思議なことです。

これについて、ぼくが授業を行った中学生たちの感想文が一番のヒントになりました。

この生徒は、自分の家があっても「自分の居場所がない人」が野宿者を襲うと言っています。
「ハウスがあってもホームがない人」と言っています。

たとえば、野宿者は「ハウス」つまり「家」がない状態です。
それでも、野宿している仲間同士で助け合ったり、地域の人と仲良くして、あったかい場所を持っている人がときどきいます。

ふつうの意味での「ハウス」はないけど、居場所という「ホーム」がある、というのです。
「アット・ホーム」という言葉がありますが、それは「居場所がある」「人と信じあえてホッとできる」という意味だと思います。

逆に、野宿者を襲う子どもたちは、住む家、つまり「ハウス」はあります。
ですが、自分が誰かと信じあえたり、いざというときには助け合えたり、自分がここにいてもいいんだ、と安心できるような「居場所」「ホーム」がない。

だから「ハウス」があるけど「ホーム」がない子どもたちが野宿者を襲う、とこの生徒は言うのです。
これはとても鋭い意見だと思いました。

スポーツ万能で人権の標語でも表彰されていた少年は、「ハウス」はあっても、自分を大事にできて、ほかの人を大事にできるような自分の「ホーム」がなかったのかもしれません。
そしてもしかしたら、家でも学校でも、親や先生に気に入られるように努力して、「がんばって努力して人から評価されなければ、自分が生きる価値はない」と感じていたのかもしれません。

そういう少年たちの苦しさやさびしさが、「何も努力しないで生きているホームレスは許せない」と思い込ませ、野宿している人たちを傷つける暴力につながったのかもしれないと思います。
本当に孤独でつらいとき、「人を傷つけなければ」生きていられなくなる状態になってしまうのかもしれません。

そのつらさをほかの人を傷つける暴力で少しでも解決しようとするのかもしれません。
人を傷つけることでしか生きられないという「さびしさ」「つらさ」「自分で自分を苦しめている」ということ、それは「生き場所がない」「生きづらい」ことだと思います。

そして、「一緒にいてやらざるを得なかった。やらないと仲間はずれになる」と言った少年は、自分が正しいと思うことを言うと仲間はずれにされる、本当のことを言えない、「お互いに信じあえない」友だち関係しかなかったのだと思います。
1人になってしまうぐらいなら、友だちと「合わせて」襲撃するほうがマシだ、と思ったのかもしれません。

グループで「他人を傷つける」襲撃は、たぶん「いじめ」と似ています。
いじめのときも、「いじめなんかやめよう」と言うと仲間はずれにされてしまうことがあるので、いじめがはじまっても、誰も止めることができず、いじめが続いてしまうことがあります。
それと同じように、野宿者を襲うときも、たとえ「おかしい」と思っても、自分だけが反対すると、今度はこちらが「仲間はずれ」になってしまうので、そこにいる誰も止められないのかもしれません。

野宿者への襲撃を止めるには、野宿者への偏見をなくしていくことがとても重要です。
けれども、それと同時に、子どもや若者のこういう「生きづらさ」、信じあえる人がいないという「ホーム」「居場所」のなさの問題を解決していかなければいけないのではないかと思います。

「襲撃」は、子どもと野宿者のいちばん「不幸な出会い」なのかもしれません。
そのために、こういう事件があると、子どもと野宿者が「出会う」ことが悪いのだ、と考える人たちが「子どもを夜に出歩かせるな」「ホームレスはシェルターに入れてしまえ」と言うこともあります。

たしかに、そうやって子どもと野宿者を分けてしまえば、事件は起こりません。
けれども、それで問題が本当に解決したことになるのでしょうか。

襲撃が子どもと野宿者との「最悪の出会い」だとすれば、子どもと野宿者を「出会わせないようにして」解決するのではなくて、お互いがお互いを理解し合える「すばらしい出会い」をつくることで解決していくほうがいいのではないかと思います。


偏見のメカニズム
オタクは気持ち悪い。
そして、オタクはパソコンゲームが好きな人だ。
だから、パソコンゲームが好きな人は気持ち悪い。

こういった偏見はなぜ起こるのでしょうか?
実は偏見とはリスクを回避するための合理的な思考でもあるからです。

前科を持った人すべてが、再び犯罪者になると考えている点で偏見です。
そんなことは統計上有り得ないからです。

実際には、罪を償ってまじめに生きていこうとする人も大勢います。 
こういった人が、就職、結婚、交友関係などで不利になるのは、まったくもって理不尽です。

このように偏見には、メリットとデメリットがあります。

偏見を持つことは人間が合理的な証拠です。
もしも全く偏見を持たない人間がいたら、危険の可能性のある人間や場所にも『偏見を持たずに近づいて』実際に危険な目に合うことが多くなってしまうでしょう。

だから、偏見を無くせと教育しても、偏見がなくなることはありません。
これは人間が生きるために獲得した自己防衛本能でもあるからです。

偏見のメリットとデメリットを教え、デメリットを極力発生させない教育するべきでしょう。
偏見は初期的な判断には有効ですが、長期的な判断には使えない思考なのです。

ある人間に対して外見や態度から『こういう人間だろう』と評価したとしましょう。
しかし、その評価と違うことが判明した場合に、すぐさま最初の判断を捨てることができるかが肝心です。

能力の高い人間だと思って雇い入れた東大生が、実はまったくの怠け者で、仕事をまじめにやらなかった場合、そのまま彼を雇い続け、重要なポストにつけるのは賢い判断でしょうか?
隣に引っ越してきた前科持ちの犯罪者が、実はまじめないい人だった場合、その人に対して無用な警戒心を抱き続けて差別するのは賢い判断でしょうか?

また、現実問題、クズのような人間が、自分の優位性を確保するための差別的手段として、偏見に便乗しているのも事実です。

ニート、ひきこもりが問題になったとき、彼らをバッシングする人が、ネットやメディアで大勢いました。
果たしてバッシングした人たちは、全員、ニート、ひきこもりを救いたいと本気で思っていたのでしょうか?

中には、自分よりダメな人間を見つけて、喜々として叩いていただけの人も大勢いるはずです。


人の目を気にする心理
人の目を気にしすぎている人って、注意深く見ていると、本人が、他者に対して偏見と差別心を強く持っている事が分かる。

「能力の無い人間」という事を差別して嫌う人は、自分も他者から「能力の無い人間」と思われないか?ということにおびえている。

偏見と差別心を持っていない人は、人の目を気にしない。
自分が正しいと思うことに、自由に行動できる。


嫌いな人と上手に協力して仕事を円滑に進めるには
人間は自分と異なる点を持つ相手に偏見を抱くこともある。

われわれが世界で一番好きな人間は自分自身だ。
人が自分と違っていればいるほど、われわれがその人に対して否定的な感情を持つ可能性は高くなる。

相手の人格的特質ではなく、自分をイライラさせる行動に注目しよう。
これは単に嫌いなだけなのか、それとも偏見を持っているのかを見分ける助けになる。

相手の何が自分をイライラさせるのかをもっとよく理解することで、その問題には自分にも責任があることがわかるかもしれない。

自分にも責任の一端があることを認めよう。
そしてパターンを見つけ出そう。

一緒に仕事をすることで、その同僚をもっとよく理解でき、なんらかの共感を持つようになることさえある。

相手の行動には理由があること(たとえば、家庭でのストレスや上司からのプレッシャー)や、相手はこちらが頼んだことをやろうとしたが失敗したのだということに気づくかもしれない。
嫌いな相手と長く一緒に過ごしていると、より前向きな経験をする機会に出合うこともある。

だが、相手が自分の道徳観を踏みにじるような人間の場合は、逃げ出すのは悪い戦略ではない。
すべてがお手上げの状況なら、感情にとらわれないという技を実践しよう。

自分が苦痛を感じなければ、なんの問題もない。


「象の鼻としっぽ」
「『伝わっている』という幻想」を強く意識するための秘訣ですが、ちょっと極端ですが、「相手を『じゃがいも』だと思う」ぐらいでちょうどいいと思います。

要は、「相手は人間の言葉やしぐさを一切理解できない」くらいに考えて、コミュニケーションをとるのがよいということです。

これは相手をばかにしているのではなく、そのぐらい自分の説明は下手なのだということと、そもそもそのぐらい「伝わっていない」という認識が必要だということです。
そのぐらい過激な認識をしないかぎり、「伝わっている」という思い込みをなくすのは難しいのではないかと思います。

「あの人に私の気持ちなんてわからないよ」というセリフもよく聞きますが、それも当然です。
なにしろ相手は「じゃがいも」なんですから。

逆の立場で考えれば、他人の話を聞いているときには、自分が「じゃがいも」になっていないか気をつけてみましょう。

この場合には、「じゃがいもだから理解しなくて当然だ」と考えるのではなく、「じゃがいもだからこそ理解することに価値がある」と考えるべきでしょう。


「ビジネスマンのための「行動観察」入門」
「自分の価値観から自由になって考える」というのは、言うのは簡単だが実行は非常に困難である。
しかし、それができてこそ新たな気づきが得られる。

「よい仮説」を得るためには、先入観は邪魔であり、この罠には高名な科学者でもはまってしまうことが多い。


「本質を見抜く「考え方」」
世の中のさまざまな言い分、見解、判断などといったものに接して、

「誰の言っていることももっともに聞こえる」
「みんなそれぞれに立派な理屈がありそうだ」

などと感じて、いったいどの結論が正しいのか、わからなくなってしまう・・・。
そんな経験はないでしょうか。

これは恥ずかしいことでも珍しいことでもありません。
むしろ、何ものにもとらわれない素直な考え方をしていたら、多くの場合、こうした疑問にとらわれて当たり前なのです。

「いや、そんなことはない。インチキな議論はインチキだし、正しい理屈は正しいとすぐわかる」

などと言っている人がいたとしたら、その人のほうが自分の狭い了見にとらわれた、偏った判断しかできない人だといっていいでしょう。

正しいものの見方や考え方をするのは難しいことです。
それは、「正しい」ということが何を指しているのか、簡単には定義できないことからもわかります。

しかし、その難しさの中で、少なくともこういうことはいえると思います。

正しいものの見方や考え方というのは、できるだけいろいろな立場や視点からものごとに光を当て、曇った眼鏡や色眼鏡、歪んだレンズでものごとを見ないようにすることから始まるということです。

そのために何が大切か、誰の目にも明らかなのは、すでにできあがっている他人の考え方に染まらないで、「自分の頭で考える」ということです。

一見もっともらしく見える他人の判断や見解を、そのまま自分の頭に採り入れるということは、もしかしたらとんだ色眼鏡や歪んだレンズに、自分の頭を支配されかねないということです。


「論点思考」
論点思考で複数の論点が思い浮かばないとすれば、それは要注意である。

発想が貧弱かあるいは視野が狭いために一つしか浮かばない、あるいは、逆に思い込みが激しく他の論点があることを見逃しているかのどちらかを疑う必要がある。

もちろん、いつも解決すべき論点すなわち大論点を他の論点に惑わされることなくただ一つだけ見つけることができるというのなら、複数の論点が浮かばないのはとてもよいことだが、そんなことは滅多にない。

あるいはそこまでの境地にたどり着くには大変な経験と年月を必要とする。

普通は「これが論点かもしれない」というのがまず浮かぶが、「いや待てよ、こちらかもしれない」とか、あるいは二つ以上の論点が浮かんでどちらが重要かよくわからないという状況になる。

ある現象を観察するときに複数の論点が仮説とともに出てくるようになれば本物である。
それらを比較することで、最も重要な論点にたどり着ける可能性が高くなる。

あるいは、次元の違う論点が出てくれば、より上位概念でくくり直したほうが真の論点に近づく可能性が高くなる。
さらに、自分が思いついた一つだけの論点にこだわっていると、より上位の大事な論点を見逃すことにもなりかねない。


「現場の「知恵」が働く チームイノベーション」
組織のなかには、個人や集団の行動を縛る「思い込み」が至るところに見られる。

外部の人間からは「思い込み」にしか見えなくても、なかにいる人たちは気づかない。
疑うことすら思いつかないほど当たり前になっている場合が多い。

もしくは、気づいていたとしても、「変えられない」という思い込みによって思考にフタをしている。
「自由に発想してみよう」といっても、こうした思い込みは随所に現れて思考の壁になっていく。

そのことを意識して、「○○はできない」「○○はダメだから」と自ら釘を刺すような発言が出てきたら、その背景にある「思い込み」を洗い出して、ほぐしてみることが必要だ。

たとえば「失敗は許されない」といういい方をよく聞く。
私は経験上、それは多分に思い込みではないかと疑っている。
むろん大きな失敗はしないに越したことはないけれど、では、どのくらいまでの失敗なら許されるのかと、一度まともに考えてみるべきではないだろうか。

このような思い込みが強すぎると、新しいチャレンジを避ける、見通しが立たないことはせずに確実なことだけを実行する、上司からの指示だけをこなす、というふうに行動が限定的になる。

しかし、大きな失敗を恐れるあまり、小さな失敗を避けて通っていたら、いつまでたっても状況は変化しない。
小さな失敗が予測されるのであれば、むしろそれは課題だととらえ直すべきであって、課題を克服しようとするところから発想は生まれる。

「短納期」
「多品種」
「コスト削減」

これも典型的な思い込みになっている可能性が高い。
発想を活性化させるためには、これらの思い込みを一度くつがえしてみることが大事だろう。

本当に短納期で開発する必要があるのか、多品種を出すことは、早く出すために古い技術の転用ですませることより優先されるべきなのか、他にコストを下げる方法はないのか、というふうに制約条件を疑ってみるのだ。

客観的に見ると、全体最適にもとづいて仕事をするのは当たり前だと思うかもしれない。
しかし、縦割り組織のなかでは、それぞれの立場や職場の役割、個人のおかれた状況によって、当たり前のことが当たり前に見えなくなってしまうことも少なくない。

組織にはびこる思い込みは、個人的な心理というより、暗黙のルールのような集団心理や圧力として働いて組織の行動を制約している場合が多い。
したがって、これに対しては上司と部下が、あるいは部署間、部門間の当事者が一緒に考えながら解きほぐし、明るみに出して取り払っていくしかない。

「会社の常識は社会の非常識」というように、その組織にとって当たり前を当たり前のまま放置しておくと、本当の問題に目が向きにくい。

もしも、ひょっとしてこれは思い込みかもしれないというものが見つかったら、ひとまず疑ってみること、場合によっては一度棚上げにして、全体を俯瞰する議論をしてみるべきだろう。

挑戦する前から「できない」「意味がない」「予算がつかない」「できても評価されない」と思えてしまうような発想は、その中身に問題があるというより、私たちが思い込みや常識にとらわれているからそう見えるだけかもしれない。

思い込みを疑い、衆知を集めて別の角度からの仮説を立てられれば、見える世界が変わってくる。
そこで組織の常識を打ち破ることができれば、せっかくの発想が殺されることはなく、それを実現するためには何をどうすればいいのか、どこで知恵を出せばいいのかというアイデアの実行段階へと進んでいける。

他人からは見えていても、自分の問題や自分の癖などには無自覚であることが多い。
その場合は、本人が自分自身を知ることができるような気づきの対話が必要だ。

制約や思い込みに気づくための対話は、相手がまずそれを常識だと思い込んでいるため、あえてしつこく

「それはなぜですか」
「本当にそうですか」
「ほかの方法はないのですか」
「当たり前ってホント?」
「絶対、絶対に無理?」

という異邦人のような目で禅問答のようなやりとりをして、常識の枠をはずす、矛盾を乗り越えるような対話をする。


次世代経営者に求められる資質とは?
「色即是空 空即是色」という言葉がある。
「色メガネでものを見る」というが、ここでいう「色」とはものの見方のことを意味する。

我々は知らず知らずのうちに、ある角度からのものの見方が絶対的に正しいと信じ込む傾向がある。
しかし、環境が変わってしまえば、それが全く意味をなさなくなることもある。

むしろ固定観念が自社の変革を妨げる危険すらある。
つまり、普遍的・絶対的に正しいものの見方などありえないことをいっているのが「色即是空」だ。

しかし、一旦多様なものの見方が成り立ちうることを理解すれば、今度は逆に、ひとつの事柄を見ても、様々な着想が湧くようになり、多面的に物事を解釈できるようになってくる。

そうして世界が色とりどりに映るようになる。
これを「空即是色」という。

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うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???

「そっ・・・、そーだったかのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「そんなつもりはなかったとは言えども、知らなかったとは言えども、エライことやらかしちゃってたかも・・・ ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」

という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?

ううーむ・・・、これらには・・・

一見バラバラのように見えても、何か共通点がある

んじゃーないかな~???

なーんて、感じません? (^^)

個人的には・・・

「最大の敵は己の心の中にあり」

とは、よく言ったものなのかも・・・(滝汗)???

なーんて、いつもいつも痛感しているんですが・・・
肝に銘じるようにしていることの一つでもあるんですが・・・
((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル

ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・

過去は変えられなくても・・・
他者を直接変えることはできなくても・・・

未来や自分自身は変えられる
イェ━━━━ヽ( ゜Д゜)人(゜Д゜ )ノ━━━━イ


んじゃーないかな~???

なーんて、感じません? (〃▽〃)

どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?





★★★ ネクストストラテジーは、三方よし経営の黒子サポーターです ★★★
「ヒト(組織)」「情報(IT)」を中心に「三方よし経営」のお手伝いを行っております。
「自律型人材育成」「自律型の組織変革」などのご相談
首を長ぁーくして、お待ちして申し上げております。 (⌒人⌒)


【追伸1】
「・・・で、答えは何なの???」と思った方へ


よろしければ、以下の記事も見てやっていただけると嬉しいです。(^^)

「自分で考えて行動する「自律型人材」が育つ組織って?」ブログについて
答えが見つからない、探しても解決策が見つからない原因って何だろう?
自律とは?自立とは?その違いって?自律型人材って何だろう?
誰にも相談しない、相談したくない、相談できない理由って何だろうか?
「自分で考える」と「独りで考える」って同じ?組織力などとの関係って何だろう?


【追伸2】
「三方よしって、何???」
という方は、よろしければ以下のページも見てやってもらえると嬉しいです。(^^)


三方よしって、何だろう?

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