2013年1月15日火曜日

経営判断とは?意思決定とは?決断や判断って何を基準に行うんだろう?

「経営判断の時に、何を基準にどう判断したらいいのかわからなくなる時があるんです・・・ (|||▽ ) 」
「意思決定を行うのが経営者の仕事だってのはわかってはいるんだけど、決定してしまうのがどうしても怖くてなかなか決められなくなってしまう時があるんです・・・ o゚p(∴´⌒`∴)q゚o。 」

「みんなの意見を聞けば聞くほど、どーも迷っちゃって、なかなか決断できなくなっちゃうんです・・・ o( ̄_ ̄|||)o--- 」
「ああ・・・、何でもさっさと決められる人が羨ましい・・・、決断力がないのって経営者失格ですよね・・・ ( TДT) 」

「決断力を向上させるいい方法って、何かないかな~??? (;´Д`)ノ 」
「判断力を高めるには、どうすればいいのかな~??? (;゜∇゜) 」

などなど・・・

「三方よしの経営相談」「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」「人材育成戦略(戦略的な人材育成)」「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などなどのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・

このような切実な声をお聞きすることもあるんですが・・・
(;´・ω・`)

迷ったり悩んだりするのが、むしろ自然だし
迷ったり悩んだり全くしない方が、ある意味怖い


こともあるんじゃーないのかな~???
ヾ( ̄ω ̄〃)ノ

なーんて感じるコトもあるので・・・ 

そもそもの話、経営判断って、いったい何なんだろーか?
判断(判断力)って、いったい何なんだろーか?

決断(決断力)って、いったい何なんだろーか?
意思決定って、いったい何なんだろーか?

どんな時に必要なんだろーか?
誰に必要なんだろーか?

決断やら意思決定やら判断やらって、何を基準にどう決めたらいいんだろーか?
決断やら意思決定やら判断やらを行うには、何が必要で何が必要じゃないんだろーか?

決断やら意思決定やら判断やらが早い or 遅いメリットって何だろーか?
決断やら意思決定やら判断やらが早い or 遅いデリットって何だろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?

何のために、決断やら意思決定やら判断やらを行うんだろーか?
誰のために、決断やら意思決定やら判断やらを行うんだろーか?

などなどについて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。

ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/

んーと・・・

まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?


■ 基準とは?
Weblio辞書
物事の判断の基礎となる標準。

基準とは、行動や判断の拠り所となる物や数値である。
何かを比較するときに用いる。
規準、水準、標準、尺度ともいう。


コトバンク
物事の基礎となるよりどころ。
また、満たさねばならない一定の要件。


■ 判断材料とは?
Weblio辞書
方針を決めたり選択したリする際に根拠や手がかりとする事項のこと。
物事を判断するための基となるもの。


■ 判断とは?
Weblio辞書
物事を理解して、考えを決めること。
論理・基準などに従って、判定を下すこと。


■ 判断力とは?
コトバンク
物事を正しく認識し、評価する能力。


■ 判定とは?
コトバンク
物事を判別して決定すること。
また、その決定。


■ 判別とは?
Weblio辞書
見分けること。
他と区別すること。


■ 決定とは?
Weblio辞書
あることが決まって動かないこと。
また、信じて疑わないこと。

はっきりときめること。
また、きまること。


コトバンク
物事をはっきりと決めること。
物事がはっきりと決まること。
また、その内容。


■ 決断とは?
goo辞書
意志をはっきりと決定すること。


Yahoo辞書
きっぱりと心を決めること。


■ 決断力とは?
コトバンク
自分自身の判断・責任で決断する能力。


■ 意思決定とは?
Weblio辞書
ある目標を達成するために、複数の選択可能な代替的手段の中から最適なものを選ぶこと。


ウィキペディア
意思決定とは、特定の目標を達成するために、ある状況において複数の代替案から、最善の解を求めようとする行為である。
意思決定とは合理的な選択を行うことが求められる。

意思決定の思考方法とは、正しい目標の認識や必要な情報の収集、目標達成のための方策案の考案と比較、最善の方策の選択と実行計画の立案、計画の実施の監督を包括するものである。
個人の意思決定から集団の意思決定までに通用するものとして捉えることができる。

意思決定過程モデルの中でも、特に有名なものにゴミ箱モデルがある。
それは、人、問題、解をゴミと見立て、そのゴミをゴミ箱に見立てた「意思決定機会」に入れると、意思決定機会が満ちたときに結果が出ると考えたモデルである。

その特徴は、過去のモデルによる「合理的な意思決定」を捨て、「人間は合理的な意思決定ができない」という考えが前提にあることである。


■ 意思とは?
Weblio辞書
心の中に思い浮かべる、何かをしようという考え。思い。


■ 意志とは?
goo辞書
あることを行いたい、または行いたくないという考え。意向。


goo辞書
何かをしようとするときの元となる心持ち。
目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き。

個人あるいは集団の行動を意識的に決定する能力。
広義には、欲望も含まれる。


ウィキペディア
意志は、目標を定めてその達成のために行為を促す自発的な思考を意味する。

意志とは自発的に目的を選択すること、その実行のために要する手段を思考すること、から成り立つと考えられる。
目標を選択することは必然的にそれ以外の目標を諦めることになるが、目標を一点に絞りながら努力をそこに集中させることで障害を突破することが可能となる。

意志が目標の決定を要請する場合には同時に諸々の中間目標の選定も必要となる。
大規模な目標も小規模な目標を中間に分割しながら達成することで、意志はあらゆる問題に対処することができるようになる。

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で・・・

次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?


「なぜ会社は変われないのか」
日本的な物事の決め方というのは、みんなで合議して、お互いに納得できる話し合いができる時はいいが、それができない時は時間切れになって、しかたなく

「とりあえず」
「いちおう」

決めたかたちをとっておく。
曖昧な中身をもちながら形式的な要件だけを整えておくのである。

しかし「とりあえず決めたこと」というのは気持ちのうえでは暫定的なものだから、具体的な実効力をもって展開していかない。

決めたといっても妥協の産物のような決め方だから、話し合ったその当の本人が決まった内容をそれほど重視しているわけではないし、周りも同じようにその内容を信用していない。

さらに問題なのは、誰も「責任をもってフォローする状態になっていない」という点である。
形式上の責任者はいるがフォローがない。

これは責任の範囲が不明確というような問題ではなく、そもそも実質的な意味での責任というものが存在するのかどうか、という問題なのである。

また、過去に不祥事などが起きた経験をもつ企業の場合などは特にそうなのだが、過剰に意思決定のミスを恐れ、何でもかんでも上におうかがいを立てるのが当たり前という習慣になってしまっているケースがある。

本来、下のレベルで判断すべき案件を、上におうかがいを立てるということがいつも行われていると、待ちの姿勢が蔓延し、意思決定の能力をもつ人間がいなくなってしまう。

つまり、上におうかがいを立てることで下は責任を上に預け、上は意思決定に関わっていながらも、直接担当していることではないから、責任は本気で感じていないということが起こり得る。

合議で何かを決めるという決め方の問題も含めて、こういう場面で問題なのは、形式上の責任者の有無ではなくて「誰も心の底から責任を感じていない」という事実なのだ。

一人で決めるというのは、勝手に決めることと同義語ではない。

勝手に決めては誰もついてこない。
どうぞ好きにやってくださいと単に無視されるだけである。

一人で決めることには、常に暴走する可能性というものがつきまとう。

「みんなが納得する」ために一番手っ取り早いのは合議をみんなが納得するところまでやることである。

しかし現実はそんなに簡単ではない。
合議してもみんなが納得する状況にならないケースがあるからである。

「みんなが納得する」必要のある事柄と、そうでなくてもお互いの基本的な信頼関係さえあれば一人で決めてもよい事柄との区別が必要だ。

みんなが納得する必要のある事柄とは、たとえば目標であるとかルールなどがそれである。
決められた事の中身がみんなに関係することは、やはりみんなの納得がなければ機能しない。


「こうすれば組織は変えられる!」
多くの会社を悩ませているさまざまな混乱やコミットメントの欠如の根本的な原因を一つ挙げるとすれば、それは恐怖心だといえるだろう。

恐怖心は、あっという間に広がり、職場の空気を支配する。
空中に漂う見えない毒素のように、社員たちの緊張を高め、注意力を散漫にさせるのだ。

彼らは自分の評判が傷つくのを恐れて気が気でなくなるのだ。
そしてついには、不安の塊を感じずに目覚めるのがどんな気分かを思い出すことすらできなくなる。

したがって、マネジメントがまず最初に知らなくてはならないのは、職場が恐怖心に支配されていないかどうかである。

恐怖心は人々をカメに変える。
恐怖心は彼らにこう命令するのだ。

「できるかぎり甲羅の中に身を隠して、決して目立たないようにしろ」
「今の仕事を無難にこなしていけばいいんだ」

「クリエイティブになろうとなんかするな」
「問題に巻き込まれるのがオチだ」
「問題を解決しようと余計なことに首を突っ込んでも、自分が損するだけだぞ」

恐怖心に支配されると、人はうまく思考することができなくなり、判断力が鈍る。
会社が目指している方向、あるいは目指すべき方向をしっかりと見極めることもできなくなる。

強い恐怖心にかられると、私たちの脳は普段なら可能な論理的な思考ができなくなるのだ。
つまり、文字通り頭が働かなくなる。


「人として正しいことを」
価値観を大切にする従業員と、規則を遵守する従業員の間には違いがある。

価値観を大切にする従業員は、価値観や信念に沿って行動し、自己統治する。
選択を迫られたときは、堅固な価値観が手引きとなる。

一方、情報に基づいて黙って従う従業員は、規則にしか関心がない。
もしもお偉方が規則に従おうとしなかったら、自分の損にならないような決断をするしかない。

自分で決められなければ、それができる管理職なり上司なりに判断をあおくが、誰かが決定するまでは自分の損得勘定が前面に出ることになる。

結果として、時間や効率ばかりか、安全そのものも脅かされる。

絶対的服従の文化と情報に基づく黙従の文化は、暗記学習や訓練プログラムを通じて従業員の技術を高めようとする。
知識を学ばせるこうしたアプローチは、数量化しやすい情報を広めるには効果的だ。

だがその反面、日々の仕事で直面する白でも黒でもない無数の課題に取り組むにはあまり役に立たない。

企業と従業員の価値観が一致すれば、従業員は自分の信念に基づいて行動するようになる。
顧客に付加価値を与えることを目指すようになり、サプライヤーとは相互の協力と改善が習慣となる。

自己統治を実現すれば、規則も手続きも方針も減る。
コンプライアンスを促進させるためのアメとムチも減る。

価値観に基づく自己統治は、組織内の階層を最小限にする。
価値観に基づく自己統治では、情報は誰でも必要に応じてすぐ入手できる。

人々の能力と創造性を開花させるには、彼らが成功するのに必要な情報を開示しなければならない。
情報が自由に流れることによって互いの信頼が高まれば、自己統治はさらに深まる。

不信のシグナルを送ってしまったら、いくら個人に権限を付与しても台無しになる。
信頼は信頼を生むが、その逆もまた然りであることを忘れてはならない。


「心を高める、経営を伸ばす」
判断を行うには、正しい認識がなされなければなりません。
しかし、この正しく認識するということが非常に難しいのです。

なぜなら、現象というのは、ただ一つの事実しかないのですが、観察者の視点によって左右されるからです。
決して絶対的な事実だけが存在するのではありません。

皆さんは、それぞれの立場で判断を迫られるでしょう。
そして自分の判断基準に照らして、良い悪いを判断しているはずです。

そして、その判断基準の根源をたどれば、道理とか倫理、つまり人として正しいものは何か、という原理原別であるはずです。

筋を持たない人は、何もできません。
自分の基準をどこに置くかが分からないからです。

正しい判断をするには、自らの中に指標が確立されていなければなりません。

とかく陥りがちな、常識とか慣例などを例に引いた判断行動があってはなりません。
常識や経験だけでは、新しいことに道遇した場合、どうしても解決がつかず、そのたびにうろたえることになるからです。

判断をするということは、問題を自分の中ものさしと照らし合わせて決めるということです。
しかし中には、ものさしを持ち合わせていない人を見受けます。

自分の尺度がないために、世間の常識や先例、他人の助言に自らの判断を委ねてしまっているのです。

また、得手勝手なものさしを持っている人がいます。
自分にとって損か得かということが判断の基準なのです。

基準は確かに持っているのですが、利己的な判断をしてしまうのです。


「どん底からの成功法則」
誰にも、「おっ、これは儲かるかもしれないな」と一瞬思ってしまうおいしい話に出会うことがあるものです。

ところがそう思ってしまったら最後、損得勘定で物事を見ると、それは必ず失敗してしまいます。

判断を下さなくてはならないという場面で、人はどうしてもこれは自分にとって得となるだろうかということを考えてしまいます。
「欲」というのは、たしかに自分を突き動かしてくれる原動力になってくれます。

しかし、その「欲」を判断基準にしてしまうと、損得勘定でしか物事を見ることができなくなってしまうのです。

目先の損得を見ているかぎり、人を見たらお金と思えということになります。
いくら品性下劣な人でも、お金の面で得だと思うと、いい人に見えてしまい、お金の仮面の下にあるその人格やホンネは見えてきません。

お金の面だけではありません。

この人とつきあっておくと偉い人に紹介してもらえる、人脈ができる、などと損得で人間を見ていると、その人は単に人を紹介してもらうための道具になってしまい、その人自身がもっているいいものも見えなくなってしまうのです。

会社で社員を雇うときも、どうしても会社に直接的な「得」になるような人間を採用しようとしまうことが多いと思います。
「こいつがいると売上が伸びそうだな」「こいつ能力ありそうだな」「こいつは学力もあるし、いいぞ」とさまざまに会社の得を思うのです。

なぜ人を正しく見ることができないのかというと、それはこちらの損得勘定が頭にあるからです。

「欲」を物事の判断基準にし、損得勘定で見ると視界が曇ってしまいます。
欲というフィルターが真実を覆い隠し、欲によって理性の声はかき消されるのです。


「この世でいちばん大事な「カネ」の話」
ギャンブルにしろ、投資にしろ、大人の「カネ」の世界には、人間の金銭感覚を狂わせる危険がいっぱい潜んでいる。
「カネ」をドカンと失うことで、わたしはそのことを嫌というほど、知った。

だからこそ、「このお金は今日一日稼いだ稼ぎだ」と実感できるような体験を積んでおくことが、すごく大事だと思う。

手で触れる「カネ」、匂いのする「カネ」の実感をちゃんと自分に叩き込んでおく。
そういう金銭感覚が、いざというときの自分の判断の基準にもなってくれるからね。

自分でお金を稼ぐようになると、誘惑だっていろいろとある。
中には「おいしい儲け話」なんていうのもあるかもしれない。

これはまともな話なのか、そうじゃないのか。
「ラクして稼ぐ」ことばかり考えて、いざというときの判断のベースになる「金銭感覚」が身についてないと、やすやすと足元をすくわれてしまうよ。

最近は「自分のお店を持ちたい」といって、起業を考える人も増えているようだけど、そのための元手が足りないからって、安易に借金するのもやめたほうがいい。

こつこつ元手をつくりあげることもしないで、いとも簡単によそからお金を借りる人間の商売がうまくいくとは、わたしには、とうてい思えないもん。

借金というのは、すればしただけ、膨大な利子も払うことになる。
銀行が「もうあなたには貸せません」って言い出したら最後、あっけなく倒産することもある。
そうなれば、手元に残るのは負債だけ。

今の時代は、お金を借りることの敷居がどんどん低くなっているよね。

「クレジットカード」とか「携帯マネー」とか耳障りのいい言葉でごまかしてるけど、それって、ようするに「借金」のことだからね。
あとから返す「カネ」なんだから。

手で触ることのできない「カネ」、紙の上の数字みたいに見える「カネ」には、そんな「金を借りる」っていう感覚まで麻痺させちゃうところがある。

そういう「カネを貸したい側」の戦略に、まんまと乗せられないよう、用心しないと。
うかうかしてると破産なんていう、のっぴきならないことになっちゃうよ。

「借金」はこわい。
それはただ単に、自分自身の生活が立ち行かなくなるこわさだけじゃない。

「借金」は、人と人の大切な関係まで壊してしまう。

友だちだったのに、カネの貸し借りがあいだに入ったために「友だち」が続けられなくなったことが、わたしにはたくさんある。

いくらお金を貸したからって、それがその子にとって、当座の気休めにしかならないってことを、みんながわかっていた。
借りても返せないその子も友だちに顔をあわせづらいから、だんだん、こっちからは連絡もとれなくなって、そのうち、みんなの前から姿を消した。

そうやって結局交流がとだえてしまった友だちが、私には何人もいる。
こんな悲しい、割に合わないことはないよ。

困っている友だちにお金を貸したら、そのせいで、友だちが「友だち」じゃなくなっちゃうんだからね。
「借金」の問題は、そうやって親しかった人たちまで巻き込んでしまう。

自分ひとりの生活が行き詰るだけの問題じゃない。

カネの貸し借りっていうのは、楽しかった思い出や、大切な友情をダメにしてしまうことがあるんだっていうことを、しっかりと覚えておいてほしい。

金銭感覚っていうのは、日々の積み重ねによってつくられていくものなんだよ。

ギャンブルや、投資、借金は、その人の金銭感覚を拡大して見せてくれるものだけど、その金銭感覚をつくる元は、子どものころからの日常の習慣なんだと思う。

習慣っていうのは、一度身についてしまうとなかなか変えられないし、変わらないものだからね。
無意識で繰り返していることが多いぶん、もしかするとギャンブルよりももっとこわいかもしれないよ。

大人がそういう態度だと、子どもだって勘違いしちゃう。
「損しない」ってことがいちばん大事みたいに思っちゃう。

「損したくない」ってことばかり考えていると、人って、ずるくなるんだよ。

少しでも人より得しようって思うから、「だったら、ズルしちゃえ」っていう気持ちが出てきてしまう。
ささいなきっかけで、それがどんどん卑しい行為に結びついてしまう。

きっかけはささいでも、「このくらい、べつにたいしたことはないよな」っていう、自分にだけ都合のいい気持ちが、あとあとの大きな分かれ道になってくる。

人間、誰だってちょっとでも「得をしたい」って思うものでしょ。
だけど、うかうかと一線を越えちゃうと、ダムに空いた小さな穴みたいに、そこから金銭感覚って崩れていってしまうものなんだよ。

モノを借りて返さなかったり、お金を払わないようにしたからって、それで「得した」なんてことは絶対にない。
あとで絶対に「マイナス」になるものなんだよ。

「ちょっとそれっておかしいかも」
「これっていいのかな?」
「どうなんだろう?」

自分なりのしっかりした金銭感覚をつくっていってほしい。


無意識バイアス
バイアスとは、シンプルに言うと育った環境や文化、経験などさまざまな要素からなるフィルターのことで、意志決定の際に避けては通れません。

無意識でバイアスがかかることもあり、正確な判断を下すことを困難にしてしまいます。

無意識のバイアスに打ち勝つには、会社の成功とは何か、履歴書を送ってきた人が会社に何をもたらすのか、をしっかりと理解する必要があります。

例えば、名前は重要ですか?
重要ではありません。

住所、学歴も関係ありません。
年齢は仕事のパフォーマンスに関係ありません。

結果として履歴書でみるべきことはほとんどないんです。


「未来の働き方を考えよう」
普通の人はいろんなことが不安で、人生にやたらと保険をかけます。
思い切った決断ができません。

常にブレーキに足をかけ、アクセルを全開にせずに人生を運転します。
進みたい道があっても、よくわからない道、地図に載っていない道には足を踏み入れない。
「危ないかもしれない」からです。

普通の人がそういう不安に怯えるのは、本当の不安を知らないからでしょう。

本当の不安とは、人生が終わるという瞬間が、明日にもやってくるかもしれない、ということです。
それに比べれば、その他の不安など質的に全く及ばないところにあります。

だから、死の意識や人生の有限感をもつ人は、それ以外の細かい不安に怯えません。
最も大事なのは何なのかが、わかってくるからです。

人生が有限だと宣告された時に生き方が変わるのだとしたら、それまでの人生は、自分が本当に望んでいる生き方ではなかったということです。

生き死にだけではありません。

たとえ死ななくても、人は確実に年を取ります。
今は健康に自信のある人でも、年を取るということを甘く見ないほうがいいということです。

だから絶対やりたいことは、「いつか」ではなく「今」やっておくべきなのです。

多くの人が、今やりたいことを我慢してまで、リスクに備えようとします。
しかしどんなに頑張っても、その不安が解消されることはありません。

反対に私たちは、人生があと10年かもしれないというリスクには、どんな備えをしているのでしょう?
10年後に人生が終わるとしたら、自分がやっておきたいことは、今やっていることでしょうか?

やりたいことを後回しにしないこと、自分にとって本当に大事だと思えることを優先することは、経済的な備えを少しばかり積み増すことよりも、よほど重要なのです。

人生はいつまで続くかわからない。

この意識をもつことが、くだらない世間の”あるべき論”に汲々と従う生き方に対して、立ち向かう原動力となってくれます。

なんとなく過ぎて行く日常は、あたかも永久に続くかのように思えます。
でも実際には、終わりは突然(そして当然)やってきます。

誰かの人生ではなく、自分の人生を生きること。
周りにどう見られるかではなく、自分が心から気持ちよいと思える人生を送ること、それがなによりも大事なことなのです。

実は世の中には、ごくわずかな蓄えしかないのに、いとも簡単に会社を辞めてしまう人がいます。
なぜそんなことができるのかというと、彼らには、「ものすごくやりたいこと」「それさえあれば他には何も要らない」ということがあるからです。

彼らは、貯金があって生活に不安がないから仕事を辞められるのでも、能力が高くていつでも働けると思うから辞められるのでもありません。

そうではなく、自分のやりたいことが極めて明確だからきっぱりと決断できるのです。


「ストーリーとしての競争戦略」
ビジネスは多かれ少なかれ「けもの道」です。
その道の経験を積んだ人しかわからない嗅覚がものを言います。

右か左かどちらに行くべきか、判断を迫られたときに野生の勘で選び、5年経って振り返ってみたら、あのときのとっさの判断が効いていた、というようなことはしばしばあります。

理屈では十分に説明できません。
自らの一連の行動が貴重な実験です。

学者とは、さまざまなけもの道を走っている人を眺めながら考えているという人種です。
実務家に見えるものが学者には見えません。

理屈では説明がつかない野生の勘が勝負の8割を決める。
そのとおりだと思います。

けもの道で身につく嗅覚は決定的に大切なのですが、その一方で、限界もあります。

それは、日々けもの道を走っていると、視野が狭くなり、視界が固定するという問題です。
走りながら考えている人は、どうしても視界が狭くなります。

日常の理論はひとたび自分の視界の中に入ると非常によくものを見せてくれます。
しかし、見える範囲は限られてきます。

運転中によそ見をしていると危険だからです。
この傾向は高速で走っている人ほど顕著です。

高速道路を走っている状態を想像してみてください。
速く走れば走るほど、どうしても視点も固定してきます。

目前の現象は日々変化します。
だからこそ「変わらない何か」としての論理が大切になるのです。

ふだんから走りながらなんとなく考えていることであっても、一度立ち止まって頭の中から出してみて、どうすればいいのか気づくことがあるはずです。


「ヒーローを待っていても世界は変わらない」
人は疲れているとき、さらに疲れることはしたくありません。

疲れているときには、他人の話をじっくり聞くことなどできないし、ガマン強く他人と意見をすり合わせることなどできない。
面倒くさいことはなるべく回避して、「何でもいいから、さっさと決めてくれよ」とパッとサッと物事を進めたくなります。

回りまわって自分に不利益が及ぶかどうかなんて、そんなこと実感できない。
フィクションだろうがなんだろうが、ピンセットでつまみあげてプラスかマイナスかとやったほうが、白黒はっきりするし、なんと言ってもわかりやすい。

より根本的な、そもそも論として、仕事と生活に追われて、苦しくて疲れている人は、本を読む暇もないし、そんな気力も出てこないから、読んで考え直してくれる、ということも起こらない。

一度判断を下せれば、あとはその人たちが何を言おうと、一つひとつの発言をそれぞれにどこまで理があるのか、具体的に細かく吟味する必要がなくなる。

これは非常に効率的です。
ではなぜそんなに効率が優先されるのか。

みんな忙しいからでしょう。
そんなことにいちいち関わっている暇はない、仕事と生活に追われて大変なんだと。

レッテルにおさめず、複雑な問題を複雑な問題として考えるにはどうしても時間がかかります。

本当の意味で、民主主義を深め、自分たちで意見調整し、合意形成し、誰かに「決めてもらう」ではなく、自分たちで「決める」のだということを実践していくためには、時間と空間というその2つの問題に向き合う必要がある、と思います。

困難な課題ですから、いま着手すればすぐにどうにかなりますというものではありません。

ただ、そこに課題があることは、みんなが一度十分に認識する必要があるのではないかと考えています。


「未来を変えるちょっとしたヒント」
人間が意識的に動こうとする時には、必ず未来のことがイメージとして頭の中に無意識に描かれます。

私たちは普段、頭で実に様々な考えを巡らしていますが、それらの中には次の行動のイメージが必ず含まれているのです。
それがあるから、私たちは次の行動に移れるのです。

私たちがこれから先のことについて決断をする場合、その意向を大きく分けると、望ましい方向に向かおうとするのか、望ましくない方向に行かないようにするものかのどちらかになります。

ある対象を「望ましい」または「望ましくない」と判断する場合には、そこには、その判断をする人の価値観が働いています。
この価値観は人によって異なるために、何を望ましいと考えるか、何を望ましくないと考えるかは、人によって違います。

価値観は、私たちの思考と行動に影響をもたらします。
まず、価値観は、その主体が何を重要だと考えるかを規定します。

価値観は、同時に、私たちが実際に行動を起こしている時に、その行動が、行きたい方向から横道に逸れないように監視する働きもします。

このように、価値観は、何を「望ましい」あるいは「望ましくない」と判断するかという点から未来のイメージ形成に大きな影響力を持ち、同時に、現在進行している、あるいは、これから取ろうとする行動の正誤の判断もさせてくれるので、未来を考えるうえでとても重要な要素です。

さらに、価値観の変化も注目すべき対象に挙げられます。
社会の中で共有されている価値観に注目すると、普遍的なものと時代によって変化するものがあることがわかります。

価値観という観点から社会状況を見てみると、普遍的な価値観が時代という枠を超えて社会に生きる人々の行動の規範を形成し、他方で、変化する価値観が各時代の社会の特徴を生み出す元になっていることがわかります。

未来の社会の様子を考える時には、普遍的な価値観をしっかりと把握するとともに、今の時代特有の価値観が今後どのように変化していく可能性があるのか、そして、今後どのような新しい価値観が現れてくる可能性があるかといった点についても、考察することが必要になってきます。


「脳はなにかと言い訳する」
人はなぜ思い込みをしてしまうのでしょうか。

たとえば、目の前にあるものを、これはコップだろうか、紙だろうか、鉛筆だろうかと、毎回一つひとつを疑っていたら大変です。
もっといえば、哲学的に、「コップとはそもそも何ぞや」などと常に考えこんでいたら、日常生活に支障が出ます。

それよりも、ひと目見て、「これはコップだ」と一瞬で判断して、それ以上は深く考えないでおくほうが、ほかの重要な作業に打ち込めるので簡単です。
そんなわけで、先入観や思い込みによって、脳は次々に入ってくる情報を素早く処理していっているのです。

しかし、これは反面、それによって通り一遍の見方しかできなくなってしまうことにもなります。
「迅速な情報処理」と「マンネリ化」というトレードオフの絶妙なバランスの中に、脳は存在しているのです。

それゆえに私たちは日常において注意が必要になります。

そうだと思い込んでしまったら、その思い込みから逃げることができなくなってしまう不自由さ、先入観に機能が縛られてしまう危険性を伴っているということです。

逆に言えば、新しい発想、人とは違う個性とは、先入観や思い込みだけで流されてしまわないで、ほかに何か可能性がないだろうかと考えていくところから出てくるのかもしれません。


「「判断力」を強くする」
判断ミスの原因は、ざっと考えてみただけでも次のようなものが思い当たります。
一部重なっていたり、お互いが因果関係どうしの原因もあります。


○ 狭い範囲で考えている
現状に関して全体像が見えず、狭い範囲で物を見て判断することです。
「木を見て、森を見ず」型の判断ミスです。

狭い範囲で考えているので、本当はいろいろある選択肢の中で、限られた選択肢だけしか見ていないことがあります。
つまり、他の選択肢の存在に気づけてないのです。

自分が勝手に限定していた最初の選択肢の中でなかなか判断がつかない、ということはよくあることです。
予想もしていなかったまったく違う別の選択肢の中に進むべき道があったりします。


○ 選択肢を絞り込めない
判断する際には、まず「鳥の目」で幅広く見渡し、できるだけ選択肢の見落としがないようにすべきです。

しかし、だからといって視野に入った選択肢のすべてをていねいに検討していては、時間がいくらあっても足りません。
そもそも深く検討する価値がない選択肢もあります。


○ 目先のことに囚われる
最終目的地は遠くに霞んでしか見えないことがあります。
そのため、分かれ道では、細い道より広い道とか、きつい坂より緩やかな坂というように、目先の状況をもとに選んでしまうことはありませんか?

大きな最終目標よりも、目先の小さなことに囚われて判断を誤ることはよくあります。


○ 思い込みをしている
いろいろな可能性を考えず、勝手にたった一つの可能性を決めつける「思い込み」の判断ミスもよくあります。
自分の判断に対する過信状態です。

「思い込み」に陥る理由は次の2つでしょう。
一つ目は、選択肢を早々に一つに絞り込んでしまう結果です。

二つ目は、少ない判断材料で因果関係を断定した場合です。
つまり、そもそも他の選択肢をまったく見ていない状態です。


○ 選択肢のデメリット面を見落とす
分かれ道でどちらに行くかを判断したとき、たいていは、「この道なら景色がよさそう」とか「近道だから」とか、プラス面を思いつきます。

一方、その道を行くことのマイナス面は、なぜか忘れがちです。
とくに、よかれと思ってやっていることには、そのマイナス面に思い至らないことが多いようです。

自分が選ぼうとしている選択肢が持つメリット面だけに目を向け、デメリット面を忘れている判断ミスはあちこちで見かけます。


○ 冷静さを失っている
判断の家庭で冷静さを失うことは、判断の土台を揺るがしてさまざまな被害を引き起こす大地震のようなものです。
判断の土台が揺るげば、たとえば、選択肢を見落とすでしょう。

また、情報を疑ってみる余裕がなくなり、「その先」まで考えられなくもなるでしょう。
冷静さを失えば、判断ミスのオンパレードになるはずです。

課長のつまらぬ小言に、ついカーッとなってしまい、言ってはならない一言を言い返してしまう。
恋に舞い上がっているときは「この人でなくちゃ!」と思っていたのに、後で冷静になってみると「なぜこの人に?」と不思議に思ったことはありませんか?

そもそも「判断」とは何でしょう?
言葉の意味はやさしそうですが、実態はかなり奥深い概念です。

「思う」ことは、他に影響を与えずに取り消すことができるような感覚です。
これに対して「判断する」とは、複数の選択肢の中から選ばれ、しかも行動を伴うような印象を与えます。

脳内現象だけの「思う」とは違い、「判断する」とは、必ず行動を伴うものです。
しかも、複数の選択肢の中から選ぶので、ちょうど道が複数の道に分かれている分岐点に立ち、次に進むべき道を選択している状況にたとえられるでしょう。

一つの道を選択して進む以上、その道の先には、どんな運命が待ち受けているか分かりません。
落とし穴に落ちてしまうかもしれません。

脳内だけの変化である「思う」は、周囲に影響を与えず、取り消すことができます。
しかし、行動を伴う「判断」の場合、ある分岐点で、一度、ある道を進んでしまうと、元には戻れない可能性もあります。


日本の難民認定基準、知ってます?
みなさんが、難民の積極的な受け入れに反対でも賛成でもいいです。
でもね、「自分の国は、こういう基準で難民認定をしているのだ」ってことくらいは、知っておいたほうがいいかも。

日本の難民認定数、そしてその認定率は、他の先進国と比べあまりに少なく低いんです。
「なんで日本だけこんなに認定率が低いのよ?」ってことで調べてみたのが、法務省が出してる「難民認定の事例集」です。

日本の難民認定基準では、監禁されたり拷問を受けたり、家を爆撃されたり家族が脅迫されても、迫害主体が「本国政府」じゃないと難民として認定されないんです。

わかりやすく言えば、シリアにおいて政権に迫害されてる人は条件を満たすけど、IS や反政府勢力に迫害されてる人は難民としては認められないってことです。

もちろんシーア派の人がスンニ派の人に迫害されてもダメです。
それは「政府による迫害」じゃないから。

「申請者の供述には・・・看過しがたい変遷や齟齬が認められる」というパターンも多かったですね。
命からがら逃げてきた外国で、すべての証拠を揃えて日本語に訳し、その資料と齟齬のないようきちんと論理立てて話す。
そういうことができないとダメなんです。

他にも、「申請者は独立活動組織の広報責任者として活動していたというが、広報責任者として当然承知しているはずの事項について客観的情報と異なる」といった不認定理由も複数ありました。

でもね。
日本の担当官って、内戦が続く国の反政府活動グループの広報担当者が「当然知ってるべきこと」をどうやって判断してるんでしょうね?

まーさか、日本の企業の広報部をイメージして「広報ならこれくらいのコトは知ってるべき」とか、そんな判断をしてるわけじゃないでしょうね??

申請者の言うことが「客観的な情報と異なる」って書いてある事例もすごく多いんだけど、アフリカや中東の紛争に関する「客観的情報」って、いったいどこから得ているの?

てか、そもそも判定を担当してる人たち、途上国や紛争国に行ったことくらいはあるんですかね?

3つめに多かったのがこの理由。
つまーり、「国が内戦でぐちゃぐちゃになってるから逃げ出してきた!」では難民とは認められないんです。

本人がなんらか政治的な主張をし、それを理由として本国政府から迫害されないとダメなの。
反政府活動をしてる人のうち、リーダーなど主要なメンバーじゃなければ難民として認めない。

ちなみに弾圧する側は、普通、目立つリーダーを殺したりはしません。
たとえばミャンマーでは、スーチー女史は、軟禁はされても命は奪われない。

だから、もしそういうレベルのリーダー以外は難民として認めないと言うのなら、ものすごく狭い範囲の活動家しか難民とは認められない。

ちなみに戦前の日本だって、公安警察は共産主義者や戦争反対論者を片っ端から捕まえて投獄し、拷問して殺しちゃってます。

でも、拷問で命を落とした彼らの多くだって、歴史に名を残すこともない“一般メンバー”でした。
そういう人が逃げてきても「リーダーじゃないから保護する必要はない」ってこと?

どう、この基準?
これが“おもてなし”の国、日本の難民保護の基準なんです。

まさかみなさん、日本は世界から「すばらしい“おもてなし”の国」だと思われてるなんて、信じてないですよね?
そんなコト思ってるのは日本人だけですよ。

てか、金を払ってくれる人だけを歓迎するなんて日本語的にも“おもてなし”とは言えないでしょ。


志高い企業が真のブラック企業化するワケ
創業時は立派な志があったのに、時を経るにつれて経営者が現場から遠ざかり、イエスマンのみを周囲にはべらせた結果、現場が悲惨な状態になっていたという会社はたくさん存在している。

その会社がブラックであることを良しとしているのか、なんとか良い会社であろうとしているのか。

我々はその会社が「言っていること」ではなく、「やっていること」で判断していくべきであろう。


決められないリーダーのための決定学
決定とは、人や組織が次の行動を決めるために、複数ある選択肢の中から1つを確定することです。
つまり、次の行動を伴わなかったり、選択肢が1つしかなかったりするのは、決定ではありません。

選定は、決定ではありません。
選定とは、次の行動を取りうる選択肢を作るために、多くの候補の中から、決定できそうなものを選び出すことです。

選定がうまくできると、決定が容易になります。
そのためには、多くの候補を適切に集めなければなりません。
そして、その中からより決定しそうな候補を的確に絞らなければなりません。

もし仮に、優れた選定プロセスが出来上がっているとすれば、決定を不要にすることができます。
なぜなら、選択肢が1つに絞られるからです。


「すべての仕事は[逆]から考えるとうまくいく」
いい分析を行なうには、どこに重点を置くべきかを理解しておくことはとても重要だ。
どのような場合に隅から隅まで調べればいいのか、どのような場合に既存の参照データを流用するだけで十分なのか、といったことである。

問題解決で、なぜ分析するのかというと、それは意思決定者が一連の行動に関しての決定ができるようになるためである。

分析の結果として、何をすべきで何をすべきでないかが明らかになるわけだから、分析する際には、必要な解決策を組み立て、不要なものを破棄することに専念すべきである。


「システム・シンキング」
最も正しい意思決定の方法は、バランスを取ることであり、短期的な選択肢と長期的な選択肢を考えてそれらの両方を含んだ行動を見つけ出すことである。

最低限、短期と長期の両方の視点から予想される結果を考えた上で、意思決定をすべきである。

長期と短期のどちらの戦略を選ぶにしても、その戦略が将来どのような結果をもたらす可能性があるかを認識しておくことが大切である。


「日本の競争戦略」
日本企業における意思決定の方法は、コンセンサスを基本としている。
日本企業では「稟議書」や「根回し」といった方法によって、誰一人として意思決定のプロセスからはみ出るものが出ないようにしている。

稟議書は、ある提案の発案者が、組織のあらゆるレベルの人間の同意を得たことを確認して初めて、経営トップの判断を仰ぐプロセスである。
また、根回しは、ある提案が公式のものになる前の段階で、様々な組織メンバー間の意見の基礎固めをする非公式プロセスである。

日本型企業モデルにおけるリーダーシップ・プロセスは、コンセンサスを追求することを特徴とする。

稟議書による意思決定プロセスは、懸案事項に対する意思表明の機会をすべてマネジャーに提供することによって、コンセンサスを形成し、その実施を円滑に進めた。
公式な組織内における非公式なグループによる議論を通じて、意思決定の叩き台が形成された。

QCやTQCは、コンセンサスの形成や会社志向を助長した。
このように多くの公式、および非公式な形での従業員の経営プロセスへの参加は、高い品質水準の達成と製造現場における漸進的なイノベーションの導入に貢献した。

稟議書による意思決定プロセスや終身雇用制、年功序列制度よりもむしろ、日本的経営の成功に貢献している。
このような状況を考慮すれば、大多数の現役の経営陣が職場の調和を過敏なまでに重視することはそれほど驚くべきことではない。

しかしながら、いずれのプロセスも、話し合いやコンセンサスの形成に膨大な時間を要する。
このようなプロセスは、戦略的ポジショニングの確立に際して深刻な弊害を伴う。

まず、あまりにも多くの承認を必要とするために、これは大胆または独自性のある戦略が遂行されないことをほとんど保証するようなものである。
なぜなら、ある事業部に有利で、他の事業部には不利となるような提案が通り、トレードオフが行われる可能性がほぼないからである。

さらに、ひとたび多くの関係者の承認を得てしまうと、たとえその製品や事業が成功しなかった場合でも、撤退するのが非常に難しくなる。


なぜ、わが社の「意思決定」はうまくいかないのか
企業において、「意思決定(計画と決定)」という活動は、組織の向かうべき方向を定め、経営資源の使い道を定める重要なものである。

だが現実には、“声の大きい人の計画ばかり通る”など、十分な議論をせずに結論が導き出されているケースも多い。

これではいつか、大失敗をしかねない。


「人生相談」の限界
人生の要所要所で、大きめの決断をしなければならなくなることがある。
ひとりで悩んでいても活路が見いだせない場合は、誰か他の人に相談するという人もいるだろう。

「人生相談」は、とても難しい。
相談するほうも難しいが、相談されるほうはおそらくもっと難しい。

他人の人生の決断を自分が代わりにすることはできないし、するべきでもない。
選択に責任が取れない以上、結論を強いることはできない。

実際のところ、相談する側も多くの場合、断定的な結論は求めていない。
ただ単に愚痴を聞いてもらいたいだけだったり、あるいはすでにぼんやりと自分の中で出ている結論を、追認してもらいたいだけということは多い。

相手が話のとてもうまい人だったりすると、感化されてその気になってしまうこともあるかもしれないが、それは自分で決めたことにはならない。


「医療事故 ― なぜ起こるのか、どうすれば防げるのか」
組織は、自分たちの組織が誤った意思決定をしていないか、危険な行動を選択していないか、自ら発見し修正する力を備えておくことが必要です。

「集団的浅慮」が起きることがあり、いったん多数決などで決まってしまうと、その決定は危険だと思うメンバーがいても、それに反する意見が出せなくなってしまいます。

集団の意思決定が適切に行われるためには集団が討議する際に、多様な意見が持ち込まれることが重要です。
そして、集団内に大きな対人的葛藤を引き起こさず、多様な批判的見解を出しやすくする方法を提案しています。

これは、集団討議の過程の中に、自分たちが作った原案に対して、自分たちで「仮想の敵からの攻撃」(つまり、もしライバル集団があったらなされるだろう批判を加えてみる)のセッションを設けるという方法です。

事故予防には一度で効く特効薬はありません。
どのような安全な組織を作っても、安全を求める努力を怠るとすぐに安全でない組織になるのです。

組織の潜在的な危険を絶えず探し、その危険を避けるための具体策を講じる絶え間ない活動だけが「安全」を得る方法です。


「本質を見抜く「考え方」」
正しいものの見方や考え方をするのは難しいことです。
それは、「正しい」ということが何を指しているのか、簡単には定義できないことからもわかります。

しかし、その難しさの中で、少なくともこういうことはいえると思います。

正しいものの見方や考え方というのは、できるだけいろいろな立場や視点からものごとに光を当て、曇った眼鏡や色眼鏡、歪んだレンズでものごとを見ないようにすることから始まるということです。

そのために何が大切か、誰の目にも明らかなのは、すでにできあがっている他人の考え方に染まらないで、「自分の頭で考える」ということです。

一見もっともらしく見える他人の判断や見解を、そのまま自分の頭に採り入れるということは、もしかしたらとんだ色眼鏡や歪んだレンズに、自分の頭を支配されかねないということです。

情報を見るときは、自分の実感が大切なのです。
実感として「こうじゃないのか?」と肌身で感じた疑問は、無理に押さえつけないことが必要です。

人間は非常に弱いもので、よほどのヘソ曲がりでないかぎり、立て板に水を流すように数字や論理を畳み込まれると、すっかり相手のペースに巻き込まれ、自分で考えるまえに、「そうかもしれない」と納得しようとしてしまいます。
あるいは「そう思いたい」という欲求さえ無意識に感じさせてしまうのです。

ふと浮かんだ疑問は、自分の正直な感覚です。
ものごとを考えるときは、冷静な情報分析も必要ですが、この「感覚」がものをいうことも多いのです。

頭で正しいと判断しても、何かのシグナルを察知したときは、立ち止まってもう一度振り返るという、そんな心の強さを身につけておきたいものです。

「全員一致したら、その決定は無効」

これはユダヤ人がサバイバルのために見につけてきた、歴史の大教訓です。

何かを決める際に、全員一致の決定は無効になり、また一から議論をやり直さなければいけません。
全員一致などありえないことで、もしも全員一致するようなことがあれば、それはもう誰一人として、真剣に考えていない証拠であるとみなすわけです。

それでは、民主主義の代名詞でもある、多数決はどうなのかというと、それはあくまでも当面の、「やむをえない暫定の妥協」であるとされています。

みんなが一つの意見に染まっているということは、とても危険な状態だといえます。
それが間違っていたり崩れたりしたときに、全員が共倒れになってしまうからです。

みんなが言っていることが正しいとは限らない。
それはかえって危険信号なのだと認識することが大切です。


「グローバリズムという病」
多くの人たちが、民主主義とは多数決であると考えている。

その現実的な形式が選挙であり、選挙によって民意が問われ、そこで多数を獲得すれば、それが民意を代表していると考えている。

しかし、同時に多数決による意思決定は、民主主義を実現してゆくための手段のひとつでしかないということである。

むしろ、民主主義の精神は、少数意見の尊重であり、少数者の保護に重点が置かれる。
それは、多数決原理というものが、民主主義そのものを破壊する決議をする可能性を戒めたものでもある。

民主的な憲法といわれたドイツのワイマール憲法下で、選挙によって選ばれたナチスが権力を掌握してゆくプロセスは、多数決原理の脆弱性をよくあらわしている。

独裁的な意思決定プロセスで実現した世界が、民主的なものになるはずはないのである。


「経営の未来」
多数の人間のほうが少数よりたいていの場合、賢いということは、周知の事実である。
我々のほとんどが独裁社会より民主主義社会で暮らすことを選び、開かれた市場を好むのはそのためだ。

だが、企業で決定がどのように下されているかを見ると、企業幹部は独裁体制や統制経済を偏愛していると思う人がいたとしても少しも不思議ではない。

この評価が厳しすぎると思われるなら、あなたの会社が過去10年間に行った重要な決定(新製品開発プログラム、幹部の任命等々)を振り返っていただきたい。
そして、それぞれの決定について自問していただきたい。

「この決定を下すにあたって、組織の集合知がどの程度、利用されたか」
「何人の人間に参加するチャンスがあったか」

と。

どちらの問いに対する答えも「十分ではなかった」となるはずだ。

集合知を活用することに、なぜこれほど多くの企業幹部が消極的なのだろう。
それは、そんなことをしたら自分たちの高い給与の根拠が損なわれると思っているためかもしれない。

なにしろ、彼らは重要な決定を下すために多額の給与を支払われているのだから。
あるいは、絶対君主であるという神話を信じ込んでいるためかもしれない。

もしかしたら、幸運にも過去にいくつかの見事な決定を下したことがあって、自分の成功を幸運のおかげではなく優れた判断力のおかげだと思っているためかもしれない。
そうではなくて、ただ単に、民主主義と自由市場の原理を戦略的意思決定にどのように応用すればよいかを一度も考えたことがないためかもしれない。

原因が何であれ、重要な決定が大勢の人間の集合知に支えられていない場合には、企業は往々にして「無知の税」を払うことになる。

トップにいる人びとがもう少し謙虚になり、今よりはるかに多くの草の根の知識が集約されたら、あなたの会社が払わねばならない「無知の税」はぐんと低くなるはずだ。


「経営意思決定の原点」
「百聞は一見にしかず」といいます。

結局、いろいろな話を何度も聞くよりも、自分で事実を見、体験することで「腑に落ちる」ということでしょう。
その意味で、事実の大切さは洋の東西を問わず変わりません。

問題はこの「事実」という代物です。

「事実」と言いながら、自分の持つフィルターを通してだけ選択的に事実を拾うのが人間なのです。
「事実」とは、実はそうしたフィルターを通して残されたものなのです。

この判断は無意識にされてしまうので、誰かが大声を上げて注意を喚起しない限り、そもそも「重要な情報を無視している」という問題意識すらありません。

いずれにせよ、自分の見方にそぐわない、見方を否定するような情報はどうしても無視されるか過小評価され、自分の見方にあった情報ばかりが目に付くようになります。

「事実」「データ」「情報」を集め、「客観的」に分析することが、よりよい意思決定につながることは、一般的には間違いありません。
しかし、そうした「事実」の重要性を繰り返すときには、もう一度

「誰にとっての事実か」
「どういう立場から見た事実か」
「どのような事実か(エセ事実ではないか)」

を確認してみる必要があるでしょう。

「事実」は一つかもしれませんが、「人間が見た事実」は複数であっても不思議ではありません。

ある見方だけに偏っては、本当の姿は見えてこないし、また「事実」に基づいたとしても、正しい意思決定にはつながらないでしょう。


「論理思考の「壁」を破る」
組織の中でトップと現場の見るべきポイント、考えるべきポイントが違うのは、至極当然のことである。

トップは時に苦渋の決断を下し、一時的あるいは部分的にせよ、現場にとって痛みを伴う指示を出さなくてはならないことがある。
だが、そうした指示を現場がトップと同じ視点で受け止める可能性は低い。

「親の心子知らず」とはやや誇張した表現だが、トップの考えや思いを正しく理解できる人間は、残念ながら少ないものなのだ。
だからこそトップは、痛みを伴う指示を出すときには、慎重に切り出さなければならないのである。

感情的な軋轢が生じてしまえば、それを修復するために余計な時間と労力を割かなければならなくなる。


「ゼロのちから」
非営利組織は、上から下へと情報を伝達させない。
ただ共有するだけだ。

社員にとって、自分が仲間に入れてもらえない、つまりわざとかやの外におかれたり、上の人たちにはぐらかされたりすることほど、やる気を失うことはない。
それは幻滅と不信を生む。

末端の社員にも組織のことをわかってもらうには、さまざまな方法がある。
自分の仕事が、「何か大切なこと」へとつながっていると感じ、自分たちの考えが役立つばかりか、それに大きな力があると思えることが重要なのだ。

組織の中で自分が大切な役割を果たしていると実感できる。
その社員は、やりがいを感じるだけでなく、力を与えられたと感じるだろう。

組織の階層をなくすことは、正しい方向への一歩だが、それがすべてではない。
いわゆる「フラットな組織」の多くは、意思決定へ参加するよう社員にそれとなく呼びかけてはいるけれど、重要な決定を下すとなると、古いトップダウンのスタイルにもどる。

非営利組織はそれとは違う意思決定のやり方をとっている。
より多くの人々を参加させて、議論と実施の過程を全員で共有する。

それは学習というだけではない。
誰かの「ために」働くのではなく、誰かと「ともに」働くと感じるとき、その仕事は意義を持つ。

社員がどれだけ多くの情報を共有しているかを試すには、決定や方向性が変わったときに彼らが驚くかどうかを見ればいい。
驚きが少なければ少ないほど、彼らがより意思決定に参加していると感じている証拠だ。


「現場力を鍛える」
立ち上げたばかりの小さな組織では、創業者であろうが従業員であろうが、その肩書きや、階層、機能に関係なく全員が同じ目的に向かって複数の仕事をこなすのが当たり前である。

社内のコミュニケーションがきわめて密であり、情報の滞留もなく、意思決定も早い。
会社が今、どんな状態にあるのかが肌感覚で分かり、問題があれば一致団結し、協力することを惜しまない。

ところが、企業が成長し、関わる従業員が増えてくると、当然のことなながら、組織は専門化、分化していく。
「ひとつの会社」でありながら、一体感は希薄になり、「見えない境界線」が会社の運営を困難にする。

しかし、これはどの組織も避けては通れない「成長の宿命」なのである。
放っておけば、壁はできるし、タコツボ化するのが自然なのである。


「自分のアタマで考えよう」
十分すぎる情報があるのになぜなにも決まらないのでしょう?

理由は、「誰も考えていないから」です。
みんな「情報を集めて分析する」作業に熱中しています。

しかし意思決定のためには、「どうやって結論を出すべきなのか」を先に考えることが必要なのに、そのための思考を怠っているのです。

必要なのは意思決定のための思考プロセスなのに、それが存在していないからです。
私たちがなにかを決めるときには「情報」とは別に「意思決定のプロセス」が必要です。

意思決定のプロセスをもたないまま、どれほど多くの情報を集めても、決められません。
先に思考プロセスが決まってれば効率的に情報を集められるのです。

このプロセスは曖昧なものではなく、明確にされていないと使えないのです。
なくとなく「こんなビジネス、儲かるかな?競合との差別化も考えないといけないな」くらいの詰めのレベルで情報を集めはじめると、止めどなく膨大な情報を集めることになってしまいます。

情報が重要かどうかは、「今、求められている意思決定プロセスに必要かどうか」によって決まるはずなのです。
「どんな情報があの意思決定に必要で、どんな情報は不要なのか」という基準が明確になっていないと、いくらでも情報収集を続けられるのが「優秀なスタッフ」の哀しい性です。

「なんとなく関係がありそうだし、どこかで役立ちそうに思える情報を集めている会社員」は、「なんとなく使えそうな食材や調味料を買い物カゴに入れ続ける主婦」と同じです。

おそらく大半の情報は、使われないまま賞味期限をむかえてしまう多くの食材と同じように、そのうち使われないまま無駄になってしまうことでしょう。

なにかを選ぶとき、選択肢が多いと悩みますよね。
こういうとき、私たちは「選択肢が多すぎる!」と感じるのです。

けれどじつはそれは間違いです。

決められないのは選択肢が多すぎるからではありません。
決められないのは、「判断基準が多すぎるから」なんです。

「あれもこれも」とすべての条件を満たしたくなるのが人の常です。
そしていつのまにかなにも決められなくなってしまうのです。


「採用基準」
リーダーとは「決める人」です。
検討する人でも考える人でも分析する人でもありません。

リーダーとは、たとえ十分な情報が揃っていなくても、たとえ十分な検討を行う時間が足りなくても、決めるべき時に決めることができる人です。
日本の組織の決断が遅いと言われるのは、この点におけるリーダーシップの差が現れているのだと思います。

当然ですが、情報が完全に揃っていない段階で決断をすることには、リスクが伴います。

このリスクをとるのがリーダーの役目なのですが、日本では時に、「リスクを、人ではなく場所に負わせる」というびっくりするような手法が使われます。

たとえば「それはどこで決まったのか」という問いと、「○○会議で決まった」という回答が有り得ることは、日本における「決める」という行為の特殊性をよく表しています。

決めたのは場所ではなく、人のはずです。
誰かがその会議において決めたはずです。

しかし私たちは決めた人をあえて曖昧にするために、「会議で決まった」という言い方をするのです。

決めることができないのは、責任をとるのが怖いからでしょう。
決断を下す人には、常に結果責任が問われます。
それが怖い人はいつまでも決断を引き延ばします。

そして彼らが決断をしない理由(言い訳)はいつも同じです。
それは、「十分な検討時間がなかった」と、「必要な情報が揃っていない」のふたつです。

しかし過去のことならともかく、未来のことに関して十分な情報が揃うことはありません。


「「すみません」の国 」
日本は、何につけても決断が遅れがちである。

自由とか平等とか国際協調といった抽象的な原理原則よりも、目の前に困る人々がいる、困る団体がある、しかもどちらに決めても困る人々や団体が出る、といった具体的な状況に目が向いている。

そのために、なかなか決断ができないのである。
どっちの理屈の方が説得力があるかといった問題ではなく、目の前にちらつく人たちをできるだけ傷つけないようにするにはどうしたらよいかが問題なのだ。

論理的に整合性のある決断をするというなら、さして迷うこともないだろうが、だれも傷つけずに、みんなが納得のいくような決断をしたいと思うと、そう簡単には決断ができない。

逆に言えば、具体的にだれかが困るといった状況を配慮せずに、原理原則を貫くことに徹するなら、決断は非常に容易なものとなる。


「夢をかなえる経営計画」
人はそれぞれ存在意義を持っています。
人だけではない、この世に存在する生きとし生けるものすべて存在意義を持っています。

しかし、往々にして、人はその存在意義を見失いがちです。
存在意義を失った人々は、生きる目的を見失い、感動もなく、ただ漫然と日々をおくるだけとなるのです。

企業もまた然り。
経営者も創業当時は、

「こんな仕事で社会に貢献したい」

と考えていたはずです。

しかし、時の流れとともに、現実の「業務」に埋没し、その「存在意義」を忘れたとき、また、そのことが、社是・社訓として定められているのに単にお題目になってしまっているとき、企業は非常に危険な状態になります。

すなわち、これは、自社の意思決定や行動が是か非かの判断基準を放棄している状態にほかならないのです。

このような状態に陥っているとき、経営者は外部からの情報を「損得」で考えるようになります。
「損得」で判断するとたいてい失敗します。

判断基準がないから、外部の情報に振り回され、意思決定や経営方針が首尾一貫せず、行動にブレーキがかかり、無駄なエネルギーを空費することになってしまうのです。

決断とは、ある行為を選択することであり、選択には基準があります。
意思決定時の代替案選択のために各種データを精緻にそろえようとも、この基準が誤っていたら、無意味なものとなってしまいます。


「経営者の手帳」
景気や流行は必ず変化する。

だからそれを追いかけるような経営をすると、景気が悪化したり、流行が廃れたりしたときには、企業は大きな傷を負い、その手当てをするため、必ず誰かを犠牲にすることになる。

従業員を幸せにしたいと思うなら、また、誰かに迷惑をかけたくないと思うなら、企業は決して、景気や流行を追ってはならない。

追求すべきは使命と責任、継続、本質である。


「日本でいちばん大切にしたい会社 3」
私はよく、

経営者の使命のひとつである『決断』をする場合、そのことが正しいか正しくないか、自然か不自然かを軸にしなさい」

と言っています。

それは、”偽りの経営”はやがてつじつまが合わなくなり、必ず滅びますが、”正しい経営”は決して滅びないからです。

「自分の経営理念、経営思想が反映できないような人間は経営者じゃない」
「なんのために会社をつくったんだ」

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うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???

「そっ・・・、そーだったかのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー・・・!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「そーだそーだ!ウチの社長は決断力ってもんがなさ過ぎるんだよなー! (# ̄3 ̄) 」
「ウチの社長ってば、誰にも相談せずに何でもかんでも自分独りで勝手に決めすぎじゃー! ρ(`D´#) 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」

という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?

ところで・・・

決断やら意思決定やら、その基準とかって・・・
社長や役員にしか関係しないことなんでしょーか?
経営者って、社長や役員のことだけを指すんでしょーか?

「誰もが、自分の人生の経営者

って、とらえると・・・

自分自身は、会社の社長でも役員でも何でもなかったとしても、
平社員だったとしても、派遣社員だったとしても、アルバイトだっとしても、パートだったとしても、専業主婦だったとしても、学生だったとしても、失業していたとしても・・・

自分の人生において考えてみると、自分自身も経営にものすごーく関係しているかも?
知らず知らずのうちに、経営をやっているのかも?

なーんて感じません?

そう考えると、経営ってもんがちょっと身近に感じられません?
(*⌒∇⌒*)テヘ♪

ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・

まだ見えていないだけで・・・

意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪


のかも~???

なーんて、感じません? (〃▽〃)

どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?




★★★ ネクストストラテジーは、三方よし経営の黒子サポーターです ★★★
「ヒト(組織)」「情報(IT)」を中心に「三方よし経営」のお手伝いを行っております。
「戦略的な組織づくり」「戦略的な人材育成」などのご相談
首を長ぁーくして、お待ちして申し上げております。 (⌒人⌒)


【追伸1】
「・・・で、答えは何なの???」と思った方へ


よろしければ、以下の記事も見てやっていただけると嬉しいです。(^^)

「自分で考えて行動する「自律型人材」が育つ組織って?」ブログについて
答えが見つからない、探しても解決策が見つからない原因って何だろう?
「自分で考える」と「独りで考える」って同じ?組織力などとの関係って何だろう?


【追伸2】
「三方よしって、何???」
という方は、よろしければ以下のページも見てやってもらえると嬉しいです。(^^)


三方よしって、何だろう?

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