2014年7月1日火曜日

人事評価とは?人事考課とは?何のため?組織力などとの関係って?

「人事評価」とやらとか「人事評価の方法」とやらとか・・・
「人事考課」とやらとか「人事考課の手法」とやらとかについて・・・

「三方よしの経営相談」「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」「人材育成戦略(戦略的な人材育成)」「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などなどのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・

いろんな声をお聞きしたり、いろいろと考えさせられる機会もあるんですけれど・・・
(`・ω・´)

そもそもの話・・・

人事評価って、いったい何なんだろーか?
人事考課って、いったい何なんだろーか?

人事評価やら人事考課やらって、どんな時に必要なんだろーか?
人事評価やら人事考課やらって、どんな時には必要じゃないんだろーか?

人事評価やら人事考課やらをやることによって、本当にトクするのって誰なんだろーか?
人事評価やら人事考課やらをやることによって、本当にソンするのって誰なんだろーか?

どんな人事評価や人事考課だったら、やらない方がずっとマシだったり、逆効果になっちゃったりするんだろーか?
どんな人事評価や人事考課だったら、投資対効果(費用対効果)に見合うんだろーか?
それは、誰がどんな基準でどう判断するんだろーか?

人事評価やら人事考課やらって、何のために行うんだろーか?
人事評価やら人事考課やらって、誰のために行うんだろーか?

などなどについて・・・ 

一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。

ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/

んーと・・・

まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?


■ 人事とは?
コトバンク
社会・機構・組織などの中で、個人の身分・地位・能力の決定などに関する事柄。


ウィキペディア
人事とは、企業・団体・組織などにおける個人の処遇などを決定する業務や、その業務を主管として行う部署のことをいう。

人事の果たす役割の1つに、採用・退職・異動・出向・転籍などの要員の管理があげられる。

要員の管理は短期的から中長期的なスパンでの人員の計画を行い推進していくことが求められる。
また、正社員・契約社員・パートタイマー・派遣社員など雇用形態の違いも考慮していかなければならない。

それぞれの企業などによって、多少の範疇の違いがあるが、一般的には次のようなものを指す。

・要員管理
人事制度
・評価制度(人事考課)
・等級制度
・賃金制度
・福利厚生制度
・教育訓練制度


■ 評価とは?
Weblio辞書
(1) 物の善悪・美醜などを考え、価値を定めること
(2) 品物の値段を定めること。また、その値段
(3) 物の値打ちを認めてほめること


コトバンク
社員に対して業績査定およびフィードバックを行うこと。

組織にとって望ましい行動を奨励し、問題があれば改善を行うことを目的とする。
評価の方法としては、能力主義、実績主義、成果主義などがある。

企業は、評価を通じて会社の理念戦略を示し、従業員1人ひとりのモチベーションを会社と同じ方向に向かわせる。

評価を行う際は、まず何を評価するかを明確に定めた上で実施する必要がある。
また、評価結果を本人に適切にフィードバックし、その後の改善や成長につなげていくことが重要である。

なお、評価はさまざまなバイアスによって影響される。
評価者トレーニングを行うことによって、こうしたバイアスの影響を低減する必要がある。

また、評価の結果以上に、プロセスの担保によって公平感の醸成に努めることも不可欠である。


■ 人事考課とは?
goo辞書
従業員の業務成績や能力・態度を評価すること。
勤務評定。能力考課。


Weblio辞書
従業員の能力や仕事ぶり、成果などについて、自社の価値観方針基準を基に、従業員の評価を行うこと。

人事考課は、処遇を決定するためのしくみであるとともに、部下の業務についての課題を明確にし、対策を打つためのしくみでもある。


コトバンク
社員の能力や仕事振り、成果等について、会社が自社の考え方に基づいて行う個々の社員の評価のことを指す。

人事考課結果は、社内での処遇(役職、等級、報酬等)に反映し、適切に仕事の成果に報いるとともに、更なる成長を促すために動機付け、人材育成を図ることに用いる。

適切なタイミングで適切に人事考課を行うことで、社員の動機付け、あるいは危機感の醸成を図ることが可能となる。

人事考課の方法は会社として適切に社員を統制するとともに、社員の納得性を得る必要があり、各社各様、様々な方法を用いている。

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で・・・

次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?


「すべての仕事は[逆]から考えるとうまくいく」
企画、改善案、改革案、そういったものの実に多くが、具体的な目標や理想を固めないままスタートしている。

しかし、どこへ向かうべきかわかっていないということは、問題に対する解決策も見つからず、結果への評価もできないということではなかろうか。

なぜ企業は、具体的な目的もなく船出をしてしまうのだろう?

考えられる理由は、企業、もしくはその案件に関わる人たちが「何をやりたいのか」をよく理解していなことである。
彼らの目標は、不明瞭であるか、ときには目標そのものがないこともある。

具体的な目標を設定したりシェアしたりできないより根深い原因は、我々が問題のほうを重要視するよう叩き込まれていることだ。

実際、我々の意識は問題そのものに向きすぎている。


「マネジメント - 基本と原則 [エッセンシャル版]」
組織の目的は、凡人をして非凡なことを行わせることにある。

天才に頼ることはできない。
天才はまれである。
あてにできない。

凡人から強みを引き出し、他の者の助けとすることができるか否かが、組織の良否を決定する。
同時に、組織の役目は人の弱みを無意味にすることである。

要するに、組織の良否は、そこに成果中心の精神があるかどうかによって決まる。

成果中心の精神を高く維持するには、配置、昇給、昇進、降級、解雇など人事に関わる意思決定こそ、最大の管理手段であることを認識する必要がある。
それらの決定は、人間行動に対して数字や報告よりもはるかに影響を与える。

組織の中の人間に対して、マネジメントが本当に欲し、重視し、報いようとしているものが何であるかを知らせる。


「採用基準」
日本人はよく「アメリカは個人主義、日本は組織力」などと言いますが、むしろこれは反対です。

日本では、高校、大学、大学院の進学は、ほぼ100%個人の成果によって決まりますが、アメリカの学校の大半は、入学時に提出させる資料において、過去のチームの体験、チームで出した成果、そのチームの中で自分が果たした役割や発揮したリーダーシップについて、詳細に問うてきます。

働き始めてからの人事評価も同じです。
日本では、管理職以外は個人の成果に基づいてしか評価を受けていないのではないでしょうか。

現実の社会を考えた時、集団や組織を動かさずに成果を上げられることはほとんどありません。

ところが日本では教育現場においてさえ、そういった経験を求められません。
これでは社会に出た後も、組織を動かすなんて不可能です。

そもそも「みんなでやるより、自分一人で集中して取り組んだほうが高い成果が出る」と考えているような人に、ついていきたい人はいないでしょう。


無意識バイアス
バイアスとは、シンプルに言うと育った環境や文化、経験などさまざまな要素からなるフィルターのことで、意志決定の際に避けては通れません。

無意識でバイアスがかかることもあり、正確な判断を下すことを困難にしてしまいます。

無意識のバイアスに打ち勝つには、会社の成功とは何か、履歴書を送ってきた人が会社に何をもたらすのか、をしっかりと理解する必要があります。

例えば、名前は重要ですか?
重要ではありません。

住所、学歴も関係ありません。
年齢は仕事のパフォーマンスに関係ありません。

結果として履歴書でみるべきことはほとんどないんです。


他人をこきおろす“高学歴な負け組”たちの底知れぬ心の病み
日本企業の中には、採用において人事部は学生の学歴を問わない、社員の配属、昇格、あるいは降格や左遷といった人事評価においては仕事における個人の能力成果のみを考慮する、といった考え方が広まっている。

しかし実際には、学歴によって選別しているとしか思えない人事はまだまだ多く、学閥のような不穏なコミュニティもいまだに根強く存在する。

そうしたなか、会社員は

「何を基準に人を判断すればいいのか」
「自分は何を基準に評価されているのか」

がわかりづらくなり、戸惑いや疑心暗鬼も生まれている。

このような状況は、時として、人間関係における深刻な閉塞感やトラブルを招くこともある。
学歴は「古くて新しい問題」なのだ。

なぜ、高学歴の人たちが「学歴病」になってしまったのか。
学歴に翻弄される彼らの姿は、まるで「学歴病」に憑りつかれているかのようである。
学歴にいつまでもしがみつく人たちがいることも事実なのである。

中には、「高学歴でもなかなか認められない」と嘆く人も多い。
その姿は、どこか哀れで悲しみを誘う。

採用方法が時代の変化についていけない理由の1つも、このあたりにあるのではないだろうか。

グローバル化が進まない壁の1つも。
社内でのいじめやパワハラ、セクハラ、長い労働時間、過労死などが発生する大きな理由も。


「(日本人)」
ほとんどの日本人は誤解しているが、アメリカ企業の能力主義は、利益を最大化するための仕組みではない。

それは、「能力以外で労働者を差別してはならない」というグローバル空間のルールのことだ。

アメリカでは、人種や宗教、性別や年齢で社員を差別することが許されない。
だから定年がないし、履歴書には生年月日を書く欄も、写真を貼る場所もない。
(写真を見れば性別や人種が一目瞭然だからだ)

もちろんだからといってすべての差別がなくなったわけではないが、ひとたび司法の場で差別と認定されると企業は巨額の賠償金を支払わなければならない。

だがこれは、社会に大きな難問を突きつけた。
あらゆる差別を禁じたとしても、採用や昇進の際に、企業はなにらかの仕方で労働者を選別しなければならないのだ。

そのため唯一残ったのが「能力」による評価だ。

これは能力が、人種や性別のような生得的なもの(どうしようもないもの)ではなく、本人の努力で”開発”が可能だとされたからだ。

日本企業の終身雇用・年功序列の人事制度は、年齢と性別によって社員を選別する仕組みだ。

この雇用慣行は日本というローカルな空間のなかでなら維持できるかもしれないが、企業が海外に進出したり、外国人の社員を雇用するようになるとたちまち矛盾が露呈する。

「なぜ日本人の社員と待遇が違うのか」

という外国人社員からの問いに、こたえることができないからだ。


「経営者の手帳」
人財の問題は、「確保」「育成」「評価」の3つに大別できる。
最も重要なのは「評価」である。

多くの企業は確保や育成には一生懸命になるが、意外に不十分なのが「評価」だ。
人財の問題で最も重要なのは、確保でも育成でもなく、この「評価」である。

納得できる評価の基準があれば、社員は放っておいても自己研鑽するし、さらに、その社員の主体的自己研鑽努力と、成長している姿を見た他社の社員や求職者は、そうした人が育つ職場に集まってくる。

納得できる評価で重要なことは、評価の透明性、公平性、そして愛情である。


「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」
目標を決めて設定し、それについて報酬や罰則を設けると、必ずといってよいほどその目標は達成される。

しかし、残念ながらそのせいで、測定できない大事な目標が犠牲になってしまうことが多い。
その最も顕著な例は、数値目標がなければ始まらない営業部門だ。

顧客から注文を取りつけようとして、営業が値引きやリベートなどの手口を使う。

値引きやリベートを実施すれば、当然ながら利益は減ってしまうが、ほとんどの場合、営業の成績は利益率では評価されないため、知ったことではない。

営業が自分たちの都合のいいようにこういう仕組みを利用するケースもある。

営業のコミッションは、利益率を犠牲にしてでも売上目標を達成することで得られる。
そこで今度は、利益率も評価基準に加えるのだ。

すると、営業職員は利益率の高い商品を積極的に販売しようとする。
一見よいことに思えるが、価格の安い商品は売ろうとせず、高いものばかり売りつけるようになる。

そのせいで顧客は無理やり高い品物を買わされ、すっかり気分を害してしまう。
頭にきた顧客は、競合他社の商品を買うようになる。

あるいは、利益率ではなく顧客満足を評価基準に加えた場合を考えてみよう。
この場合、利益率がそこそこの商品を売っても、営業はインセンティブをもらえない。
会社にとっては痛手でも、元値ギリギリぐらいで販売することによって、売上高も顧客満足度も向上する。

この調子でやっていったら、評価基準と目標が際限もなく並ぶだろう。

戦略目標への集中や優先順位づけなど忘れ去り、やったことはただひとつ。
評価だけだ。

さらに悪いことに、毎年の評価基準には入っていない長期的な目標や業務は置き去りになる。
そうなれば、従業員たちが会社の長期的な将来を見据えてがんばろうとする動きはなくなってしまう。

目標の評価基準にもとづいて報酬や罰則を設定してしまうと、社員は会社の利益を犠牲にしてでも自己の利益を追求しようとするということをわかっていなかった。
社員がなりふり構わず目標を達成するように仕向けてしまったのだ。

具体的な指示と数値目標を与えられ、つべこべ言わずに徹底的に、つまりは何も考えずにただ目標を達成するよう命じられるこのシステムそのものが、人間の判断力を失わせるように設計されているのだ。

評価基準についてしっかりとわきまえておくべきなのは、指標は手段であって目的ではないことだ。

数値目標が悲惨な結果を招いているのは、それが会社にとって本当に重要な目標に取って代わってしまったからだ。

人は評価基準を達成するために評価基準自体を操作してしまう場合もある。
その極端な例が、粉飾決算がばれて破産に追い込まれたマネーゲームだ。

会計や財務報告はいろいろと細工できるし、巧妙にやればますます工夫の余地が広がっていく。
まさに決め方の問題で、どうにでもなることがわかるだろう。

しかも、問題が改善されたように見せかけることもできる。

「どうしたらもっとよいサービスを提供できるか」と言っていた企業が「どうしたら最も儲かる契約を取ってこられるか」と言い始めたり、「どうしたら人の命を救う薬を開発できるか」と言っていた企業が「どうしたら巨額の利益を出せる薬品を開発できるか」などと言い始めたりしたら、企業が衰退に向かっている警告のサインだ。

お金は成功の指標のひとつにすぎない。
お金は手段にしてもよいが、目的にしてはならない。

お金が目的になってしまうと、価値を付加することがおろそかになり、やがて会社が滅びることになりかねない。


「「一体感」が会社を潰す」
ある会社に、実績、経験ともに申し分なく、即戦力として期待されていた人が中途入社してきました。

「よい人が入ってくれた」と、とても歓迎しておりました。
ところが、数ヵ月後、この優秀な社員は辞めていきました。

即戦力として期待され、その期待に応える活躍を始めたのに、なぜこの優秀な人材に悪い評価をつけたのでしょうか?
理由は簡単です。

これまで自分が築き上げてきた方法が否定され、自分の立場がなくなり、近い将来にポジションをとられると感じたのです。
実績をあげて覚えがめでたくなる前に、早々に潰しておこうと思ったというわけです。

中途入社の社員が少なく、新卒入社のプロパー社員がほとんどといった組織では、こうしたことがたびたび起こります。

中途採用だと、アカの他人です。
たとえ会社に貢献してくれそうであっても、自分の立場を脅かす可能性がある者ならば、素性と能力が多くの人に知られる前に、有無を言わさず排除してしまうのです。

これまでの自分たちのやり方とは違ったやり方を中途採用者から学んで、みんなで共有して活用していけば、組織の力が底上げされます。

もし自信があれば、それぐらいのことはできると思うのですが、「井の中の蛙」にはその自信がなかったようです。

誰かの地位を安泰にするために優秀な社員が排除され、会社は現在もリスクにさらされ続けているというわけです。


「なぜこの会社はなぜモチベーションが高いのか」
厳しい時代になればなるほど、社員のモチベーションのレベルが企業の盛衰の決め手となるというのに、わが国企業の社員のモチベーションは残念ながら年々低下してきているようです。

社員のやる気が近年低下している最大の要因は、経営者や直属上司の背中と心、つまり言動にあると思われます。

事実、実態調査で、それを低下させる要因について調査していますが、最も多かったのは「経営者や上司への信頼感をなくした時」で回答企業の実に63.3%に達しました。
モチベーションが低下するというのは、経営者をはじめとしたリーダーたちに対する不信感が年々高まってきているためといえます。

おそらく、この場合の不満は大きく2つあると思います。
一つは賃金のシステムの問題であり、もう一つは評価のシステムに関する問題です。

賃金システムの問題とは、近年の行き過ぎた成果主義・能力主義に対する社員の反発や不信と思われます。
トータルな支払原資が増加しにくい中、社員のモチベーションを高めるため、成果主義・能力主義が強く叫ばれ、多くの企業で導入されてきました。

しかしながら、多くの誠実な社員はこうした社内の競争をあおるような制度の導入を必ずしも好まないのです。
加えていえば、個人の業績はTPOにより、また上司や部下の力により極端に変わってしまうからです。

そして、もう一つの評価のシステムに関する問題とは、評価者や評価方法、さらには結果の社員への伝え方やその後のフォローの問題と思われます。

つまり評価の説得性・納得性の問題です。

しかしながら、この面で社員の信頼を勝ち取らねば、逆に評価そのもので社員のモチベーションを削いでしまうことにもなりかねないのです。
重要なことは、評価のための評価ではなく、一人ひとりの社員の育成のための評価という視点なのです。

職場の人間関係の悪化も、社員のモチベーションを悪化させる大きな要因です。

事実、調査結果を見ても40.8%の企業が低下させる要因としてあげていました。
内容で最も多いのは、仕事の量や質あるいは会社の将来性などの問題ではなく「職場の人間関係」なのです。

職場の人間関係がギクシャクしていては、社員のモチベーションが高まるなどとは到底思えません。

それもそのはず、職場の人間関係が気まずくなればコミュニケーションの機会は少なくなる上、そればかりか、他の社員を疑心暗鬼で見てしまうことにもなりかねません。

よりひどいケースでは、それが原因で労働災害が発生したり、貴重な社員の離職を増大させてしまうことにもつながりかねません。


「日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?」
何をどう頑張れば評価されて、賃金が上がるのか?

そうした制度が整っていて、労働者がよく理解していないと、労働モチベーションは上がらない。
もちろん、その約束を経営者が守ってくれないと、やはりモチベーションは上がらないだろう。

適当な理由でいつ解雇されるかわからないという場合があるとすれば、頑張って会社に貢献しようという気持ちにはなれないだろう。

報酬の制度や、雇用を維持する制度は、会社への長期的な貢献を引き出す方法なのである。
あるいは、どんな場合に懲戒が可能になるのかも、重要だ。

能率を上げるためには、評価を下げることが必要になる場合もあるかもしれないが、それが納得のいかないものなら、逆に士気を下げてしまう。

ルールは経済を成り立たせるための「インフラ」としての側面を持っている。

民法が「取引」のインフラであるように、国家は「労働者と使用者の対等な関係での取引」を保持するために、労働法を制定している。


ウィキペディア
評価を行う上では、評価に対する信用性が求められる。

評価に対する信用性とは、「評価者に対する信用性」と「評価方法に対する信用性」とに分けて考えることができる。

「評価者に対する信用性」とは、評価者が評価実施にあたって、評価を行うだけの十分な技術を持っているかということである。
「評価方法に対する信用性」とは、評価する内容に対して、適切かつ十分な方法で評価を行っているかということである。

信用される評価がなされるには、評価を行う人(評価者)に評価についての技術が伴っており、評価基準の知識を熟知している必要がある。

しかし、評価方法に基づいて評価者が行う基準が明確に定まっていても、評価に際して行うことを評価者が確実に遂行できなければ適切な評価がなされることは難しい。

評価については、「信用性のある評価」として各種の活動に役立てられることが期待されることが多い。

評価を活動に活かす場合は、複数の評価者がそれぞれ個別に別々の対象を扱うときがあるが、このような時に行われる評価は、一斉に同一の方法が取られ、評価者によって評価結果に違いが生じないことが期待される。

信用性のある評価を行う上で特に注意しなければならないのは、不用意な主観が評価に混入してしまうことである。

評価は、評価者・被評価者はもちろん、多くの人が納得できる内容について測り、納得できる方法で行われるのが望ましい。
同じような能力・価値をもったものならば、同じような評価を受けることは当然である。

評価は、公平かつ公正で、有効性のあるものでなければ信用できず、評価の内容と方法の厳格性が特に求められると考えられている。

また、多くの人が評価の価値や尺度を共有することにより、評価そのものが持つ価値が高まるといわれている。


「目標管理の教科書」
人事評価とは人事考課やボーナス査定と呼ばれるものであり、従業員の会社への貢献度の序列づけ、もしくは貢献度の絶対評価(会社が要求する基準を満たしているかどうかの判定)を意味している。

極端な言い方をすると、人事評価は、会社が従業員に与える”アメとムチ”である。

貢献度にもとづいて、賃金格差をつける。
賃金以外の処遇も決める。

だから、きちんと働いてくれ、働きぶりが良好ならば、褒美を取らす。
ダメならば、ペナルティが待っているぞ。
そういう仕組みが人事評価である。

当然、働く人々は人事評価に敏感に反応する。
おそらく、積極的にアメを獲りに行く人はごく少数で、大多数はムチを避けようとするのではないか。

もちろん、誰だってアメはほしい。
だが、そのためには、気の遠くなるような努力が待っていて、そんなしんどいことは、できれば避けて通りたい。

かといって、強烈なムチで叩かれたのではたまらない。
何とか、普通評価は取りたいものだ。
これが、人々の平均的な人事評価に対する接し方であろう。

人々は恐怖から逃れるために、恐怖を感じない程度に頑張る。
しかし、そこには働く喜びはない。

人事評価は、働く人々にとって、好感を持ってではなく、どちらかというと忌み嫌う仕組みとして受け止められているのが実態である。
働く人々は、人事評価の怖さを嫌というほど知っている。

低い評価を受ければ、不利な処遇が待っていて、賃金ダウンは当たり前。
最悪は降格人事も覚悟しなければならない。

そこで、できるだけ達成しやすい目標で、達成度を稼ごうとする。
やさしさを見破られないように、やさしい目標を難しく見せる技術も覚える。

それが普通の人間の性であり、そう簡単には止められない。
その結果、どうなるか。

全員が目標を達成したが、売上は低迷し、赤字幅が拡大する。
何ともおかしな状況の出現だが、実際にあった話である。

難しく見せる技術に長けた人が人事評価で得をして、本当の困難にチャレンジした人が割りを食う。
人事評価の信頼性も地に落ちる。

もしも、そんな状態が続くなら、働く人の心は荒廃し、確実に会社は衰退に向かうだろう。


自主的な気持ちが抑圧されていくパターン
「上司が替わるごとに規則が微妙に変わる」
「それまではよかったことがダメになる」

こういう状態が続くと、上司の顔色をうかがいながら、生活しなければならなくなります。
自主的な気持ちが抑圧されていくパターンにはまっていくのです。
上の者に逆らわず、言われたことに従わなければならない。

刑務官の言われたことにそのまま従わないと懲罰になってしまう。
自分を殺して刑務官に従っていくことが賢いやり方になるわけです。

上司から言われたことを上意下達して、刑務作業をさせるのが仕事になってしまっている。
つまり、言われたことにそのまま従って評価して、それが更生だという考え方になっているんですよね。

「自分がなぜ犯罪を犯したのか」
「自分のどこに問題があったか」

に、いつまでも向き合えない。

その点において、「更生する場」にはなっていないというのが、実態だと僕は考えています。


評価されない会社にいても仕方ない
高度成長期には、昇進と引き換えにプライベートで大きな犠牲を強いられた。
いいことばかりではなかったのだ。

そんな中、出世を簡単に諦めたくない人もいる。30後半で管理職になれなかったら、今の会社を辞め「転職する」と答えた人は、男性で10.1%、女性で11.8%いた。

「評価されない会社にいても仕方ない」

と言い切る。

給与がそこそこで居心地のいい会社であればマイペースで働いてもいいが、働きに見合った評価をしてくれない会社には愛想を尽かすということだ。


「社員が「よく辞める」会社は成長する!」
どこの会社でも「実力主義」「成果主義」を謳うようになったが、よく見ると給与体系や昇進制度は依然として年功制が基本になっている。

せいぜい年功制という大きな枠の中で「実力主義」「成果主義」を取り入れようとしているにすぎない。

日本企業の「遅い昇進」が評価されたのは、定年までの雇用が保障され、まじめに努力していたらやがて地位も給料も上がっていくという暗黙の了解があったからだ。

その前提が崩れたら、会社が社員を裏切ることになる。
言葉は悪いが、会社が社員からの借金を踏み倒すようなものである。


「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」
「お返し」で一番わりかやすいのは、お中元・お歳暮である。

この贈答関係においてもっとも大事な点は、「お返し」の場合にだいたい同じ金額・グレードのものが要求されるということだ。

もらった品に対して、あまりに安いものは失礼だが、高いものも、かえって失礼にあたる。
つまり、きわめて細かいルールがあるということだ。

お中元・お歳暮と同様、葬式の香典には「お返し」としての「香典返し」が、結婚式のお祝いには「お返し」としての「引き出物」が、入学祝いには「お返し」としての「内祝い」が要求され、私などは、はっきりいって死ぬほどメンドーくさい。

先進産業国で、これほど「贈与・互酬の関係」が貫徹している国は、おそらく日本だけである。

この点で、外国人からモノをもらっても、「ありがとう」といえばおしまい。
基本的に「お返し」を考える必要はない。

ところが日本人同士だと、「お返し」しなければならないのは当然として、あとあとまで、会ったときに、「あの時は、結構なものを頂戴いたしました、ありがとうございました」といわなければならない。

日本では「お返し」がちゃんとできない人間は、低く評価され、「世間」からつまはじきされることになる。


「「すみません」の国 」
言葉を文字通りに受けとめると、痛い目に遭うことがある。

「暇なのは今のうちだけだから早く帰りなさい」という上司の甘い言葉を真に受けて定時に帰ったら、やがて冷たい視線が向けられるようになり、否定的な評価を与えられ、ついに怒鳴られた。

「もう一軒飲みに行くか」という誘いに素直について行ったら、なぜか気まずい雰囲気になり、遠慮すべきだったと気づかされた。
そのようなことは日常茶飯事だ。

日本社会に適応するには、言葉の背後にある思いを察することが求められる。
言葉そのものではなく、その人の表情や言い方のニュアンス、その場の状況などにも注意を払わなければならない。

意見の違いが際立たないように、何事も曖昧な言い方をして、良好な雰囲気を維持することだけを強く意識する。
良好な雰囲気の場が形成されれば、お互いに相手が困るであろう要求を突きつけるようなことはできなくなる。

これが日本的コミュニケーションの基底部分に根付いている意識と言ってよいだろう。

そもそも日本においては、ごく日常的なコミュニケーションにおいても、曖昧な表現を心がける習慣がある。
それは、自分の責任を問われないようにするためというよりも、良好な雰囲気を保つためである。

日本的コミュニケーションでは、意見や感受性の違いが際立たないように、曖昧な部分を残しておく必要がある。
ぼかした表現を用い、意見の異なる人に対しても、正面切って反論したりはしない。

なぜ日本では正論を述べる人は排除されるのか。

それは、正論というのは有無を言わさぬ説得力をもち、違う意見をもつ人たちの面目を潰してしまうからだ。
すべては「場」の雰囲気を良好に保つため、そして関係者同士の人間関係を良好に保つためである。

このような日本的なコミュニケーションは、国際的な場では当然のことながら通用しない。


人事・組織のグローバル化対応
人事制度がグローバル標準になってきた背景には、人種・性別・年齢による差別の撤廃という命題に、客観性・説明性が高い職務型の人事制度が合っていたこともあるが、グローバル化の中で、このような要素はますます重要となろう。

また、日本で主流の「人・能力」をベースとした制度は、曖昧で属人的な要素が入りやすく、高度成長や儒教の影響といった背景があった当時の日本にはマッチしたが、それも今や当てはまらない。

それではなぜ、未だに多くの日本企業がグローバル標準の制度に変えないのであろうか。
もちろん、職務型の人事制度にもデメリットがあり、それも理由の1つとなっている面はある。

例えば、職務型の制度では、職務を定義して、それを元に等級や給与を決めるため、社員が決められた職務に固執する、といった問題が発生しやすい。
また、急成長企業などでは、職務や組織がころころ変わるので、一度職務評価をしても、評価が変わるかもしれない、といった面もある。

しかし、これらのデメリットは、さまざまな工夫により解消可能であり、決定的なボトルネックとは言えない。

むしろ大きな要因となっているのは、これまでの人事制度の運用と、その結果である。

職能型であれ、職務型であれ、厳格に運用されていれば、結果として、等級や報酬に、それほど大きなギャップは生まれない。
適材適所とは、能力と職務をマッチさせていくことであり、そのような運用がなされていれば、能力で評価しようが、職務で評価しようが、等級も報酬も、同じようになるはずである。

問題は、曖昧かつ属人的な要素が入りやすい「職能型」の人事制度で、そのまま曖昧・属人的な運用をしてしまった場合である。

実は、企業の成長が鈍化した1990年以降、多くの日本企業の人事制度が、制度疲労を起こしていたにも関わらず、そのまま運用を続けたため、大きなひずみを抱えている。
多くの企業で、社歴が長いというだけで、仕事に見合わない高い等級・報酬となっている社員が、かなりの割合で存在する。

このような場合、職務をベースとした人事制度を導入すると、その人の等級や報酬が下がってしまい、本人のモチベーションのダウンにつながる。
また、報酬を下げるにも限界があり、結局、調整給の支給などが必要で、一時的にコストアップとなってしまう。

もちろん、逆に若手で能力が高く、抜擢により大きな仕事をやっているようなケースでは、等級も報酬が上がり、社内の活性化につながる。

しかし、制度疲労を放置した「ツケ」があまりに大きいと、前述した課題も大きくなり、企業に二の足を踏ませる要因となっているのである。


「ゼロのちから」
どうしたらスタッフをうまく活用できるか、というのは難題だ。

採用、昇進、解雇はとても複雑になり、企業はたくさんの規則をつくって、その過程だけでなく人事部全体を縛るようになった。

採用の前に、仕事の内容を細かく規定し、多様性を考慮し、志願者の身元や経歴に偽りがないかを調べ、企業文化に馴染めるかを見極めなければならない。

解雇しようと思えば、それが正当であることをきちんと証明し、理由をながながと文書化する一方で、訴訟にも備えておく必要がある。

昇進させるときには、とても多くの要素を考慮しなければならない。
(専門性、経歴、年功序列、その他もろもろ)

頭がこんがらがってしまうほど複雑だ。

あぁ、それから、書類のこともある。
書類をつくらなければならない。
気が狂いそうなほどたくさんの書類を。

あなたは採用、昇進、解雇があまりにも複雑で自分の会社がいやにならないだろうか?
優秀な人材を1、2年で失っていないだろうか?

社内で出世競争に残っている人たちは、べつにとりわけ才能があって優秀だからではなくて、ただ毎日会社に行っているからというだけで生き残ってるのではないだろうか?

あなたは金だけが目的の社員が欲しいだろうか?


「プロフェッショナルの原点」
追従や立ち回りのうまい者が昇進するのであれば、組織そのものが業績のあがらない追従の世界となる。


「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
そもそも、人間は自己中心的なもので、物事を自分に都合よく判断したがるものである。

特にうまくいった場合の功績、手柄の評価をする時には、自己評価は立場によって大きくズレが出てきがちである。
また、自己愛が強いほど自分の貢献度を高く評価したくなり。そこにズレが出がちとなる。

しかも、やっかいなことに、人間は自分への関心は持続的で、他人への関心は瞬間的なものになりがちである。
まして、自分の言動は分かりやすいが、他人の言動は分かりにくいことは当然である。

こんな自らのバイアスを自覚した上で、公平に評価することは難しいものである。

だからこそ、「アイツには評価されたくない」「あの人から言われるのなら納得できる」という評価に対する反発や受容が自然に生まれるものだとも言える。

成果主義というのは、上司がいかに手の内を見せた上で部下を評価するのかという、部下からの逆評価を含んだシステムであることを考えなければならない。

独善的な評価を下すものは、部下からも逆評価を受けていることを忘れてはいけない。

「あんなヤツには評価されたくない」という逆評価はいずれ、仕事上の大きなマイナス効果をもたらすことになる。

まさに評価というのは諸刃の剣であり、評価者が逆に評価を受けるのは因果応報ということになるのである。


心の中のブラックな部分を目覚めさせる負の連鎖
人間というのは実におかしな存在で、自分の評価を保ちたいという衝動を隠すことがなかなかできない。

その一方で、そんな自分を「恥ずかしい」と思う自分も心のどこかにいるため、どうにか正当化しようとする。
自分の存在を脅かす事態や人にあれやこれやと難癖をつけ、自分の権威と立場を守ろうとしたり。

おまけに人間というものは、自分の行動を正当化すればするほど、心の中の「恥ずかしさ」が失せていく。
いったんアウトした感情はドンドンと加速する。

しまいには相手を批判することに快感を得るようになってくる。
人を蹴落としたところで自己評価が上がるわけでも、何の意味もないにもかかわらず、だ。


なぜ、人は自分の評価を高く考えてしまうのか
「評価制度」は、まず「自己評価」をさせて、それを叩き台にして上司との面談を行うパターンが一般的。

ところが、この自己評価というのが曲者なのである。

客観的に判断できる他者の評価は納得できるのに、いざ自分のこととなると冷静に判断できない。

どの企業の人事担当者も口を揃えて言うのは、『自己評価は本当の実力より2割くらい高い』ということ。
逆に言うと、査定で会社とモメるような人というのは、自己評価と実力の差が2割以上開いていることが多い。

自分を過大評価しているんですね。

自分を過大評価しがちな人に目立つのが、「上司は自分のことが嫌いだから、評価を低くしている」と思い込むパターンだという。
自分の評価が低いという不満がなくならない理由は、単に思い込みのせいだけでもない。

たとえば、社員が自分で目標を設定してから、後に達成度を自己評価する制度を導入しているケース。

このケースでは、目標を高く掲げすぎると達成できず、自己評価を下げざるを得ない。
上司も指導力を問われてしまう。

そこで目標そのものを低く設定し、それを達成したことで満足する。
上司と部下の関係はそれでうまくいくかもしれないが、そんなことを繰り返していたら、会社にとってマイナスなのは間違いない。

一部の企業などでは、部下も上司を評価する「360度評価」と呼ばれる仕組みを採用しているところがあるが、集まってくる評価はどれも「良くやっています」というものばかり。
部下から評価されることになった上司は、低評価を付けられることを恐れて、部下を甘く評価するようになったという。

そんなことをするくらいなら、評価制度そのものを止めてしまったらどうかという疑問も湧いてくる。

自分を評価するのも、他人を評価するのも難しい。
人事も、上司も、そして部下も頭を悩ますこの問題。

考えてみれば、みんながみんな、自己評価どおりに優秀だったら、日本がこれほど長く不況に陥ることもなかったはず。


「どれだけ残業したか」で社員を評価しようとする残念な職場
会社が社員を「正当に」評価するというのは現実にはかなり難しい。

年功序列の会社では、生み出した価値に関係なく社歴によって給与が決定されるし、成果主義を謳う会社であっても、大抵の場合はよくわからない評価基準によって結局は相場の額に落ち着いてしまう。

このように、社員の評価は非常に困難を伴うが、もっとも悪だと思うのが、「どれだけ残業・休日出勤をしたか」といった時間外労働の量によって社員の「頑張り」を擬制し、それによって社員を評価しようとするものだ。

会社は周囲と協同して仕事をする場ではあるが、他人がいまどんな仕事をしているのか、ということは完全にはわからない場合がほとんどだ。
たとえ自分の部下であっても、仕事の量、その詳細な進捗、仕事ぶりを完全に把握することは難しい。

ゆえに、頑張っているか頑張っていないか、ということを評価する時には、どうしても「遅くまで残業している」「休日も会社に出ている」という人たちが、頑張っているとみなされてしまいやすい。

しかし、現実にはダラダラと仕事をやって遅くまで残っているというケースだってある。
一方で、ものすごく密度の高い仕事をこなして、定時内にきっちり仕事を終えているという人もいるだろう。

残業をしないと仕事を真面目にやっているとみなされない、という空気が一旦組織内でできてしまうと、様々な弊害が発生する。

労働時間が長くなるので社員の健康は害されるし、「残業しないと仕事をしたと認められない」ということになれば、業務時間内に仕事を終わらせよう、というモチベーションは完全になくなる。

これによって業務の効率化は行われなくなり、生産性はどんどん下がっていく。
これでは社員だけでなく、会社にとってもいいことはない。

残業というのは例外であって、定時が原則のはずである。

残業は頑張りのバロメーターではなく、組織内で問題が生じていることを示すサインだということに、もっと多くの人が気づかなければならない。


リストラしやすい人の特徴
人事を知ることは、その会社の方針を知ることであり、「評価される働き方」を知ることだ。

人事部の「ホンネ」が出る例として挙げられるのが「リストラ」だ。

「リストラ」というと、「仕事ができない人」「人事評価が低い人」が首を切られると思われがちだが、そうではない。
人事部の立場で最もリストラしやすい人間というのは、「話のわかるいい人」だ。

会社としてはそのリストラが不当解雇だとみなされたり、リストラによって悪い風評が立ったりすることは絶対に避けたい。
そんな会社の一方的な都合にも理解を示してくれる「ものわかりのいい人」は一定数いて、そういう人こそ「肩を叩きやすい」というわけだ。

仕事ができない「本当の意味で辞めてほしい社員」がリストラに応じず、押し問答している間に「いい人」たちで定員が埋まり、生き残ってしまうこともあるというのは笑えない話である。


会社を辞めたくても辞められない…退職妨害、なぜ増加?転職妨害、脅迫行為…
創業者は24時間365日働いてきたので、社員に対しても「俺みたいに働け」と労働基準法を無視して仕事を強要しがちです。

理念や口上をセミナーなどを通じて社員に浸透させ、会社に順応しやすい人間にしてしまうのです。
そうなると、社員には辞めたいという思いがあっても、なかなか口に出せなくなってしまいます。

「社長に叱られる自分が悪い」
「ノルマを果たせない自分が悪い」

という過度な自己責任意識が生じてしまうからです。

そういう企業で社員が「辞めたい」と口にすると、経営者は怒りだします。
社員は自分の分身だと思っているので、「俺を裏切るのか」「俺に足向けするのか」という心境になって、異常に怒りだすのです。

上司は、部下に辞められると自分の責任になると思っていたり、自分の評価が下がると思っていたりして、必要以上に部下をとどまらせています。

社員を使い捨てにする企業でも、理不尽に辞めさせない企業でも、経営者や上司の心理状態は同じです。

どちらも社員を使い潰しているのです。
辞めさせない企業も、ブラック企業であることには変わりありません。


「マジメすぎて、苦しい人たち」
評価の基準が自分のなかではなく外にある人ほど、無理に期待や声援に応えようとがんばってしまいます。

ストレス疾患を起こす人の基本的なパターンが、外からの声援しか聞こえず、それに応えるためだけに必死に走り続けてしまう「まじめながんばり屋」なのです。

こういう人たちは、立ち止まったり、休息をとったりするのはいけないこと、自分の評価を下げることだと考えてしまいますから、苦しくても走ることをやめず、ぶっ倒れてしまうまで突っ走ります。

だから、突然限界を迎えてリタイアすることになってしまうわけです。

評価の基準が自分のなかにあれば、周りから何を言われようが気にせず、無理もせず、自分のペースを修正して走っていくことができます。
ゆっくり走るとしても、ダッシュするにしても、マイペースであれば楽しく完走できます。

自分を知るということは、自分のペースで生きていくためにも大事なことです。

本当の自分を知っていれば、周りの評価を得ようとして、自分を偽りながら人生を送る必要がなくなります。


誰に評価されたい?上司?会社?それとも市場?
上司が評価してくれるかどうかなんて、全く気にする必要はないです。
(その上司が、あなたの尊敬できる人でもないのなら余計に)

「うちの会社には生産性が高い人を評価する仕組みがないから」なんて、不貞腐れてると大損しますよ。
上司の評価やら、組織の仕組みやら、どーでもいいんです。

自分だけ生産性が高くなり、自分だけどんどん仕事が増えても、ブー垂れる必要はありません。

狭い組織を離れ、広い市場に出たら、それくらいの仕事は、あなたの半分の時間で仕上げる人がいくらでもいるんです。
しかも、ずっと高いレベルでね。

今いる組織の中だけで考え、「周りの人が自分よりトロいから、自分だけ早く走っても意味がない」などと言ってゆっくりしてたら、あなたもいつか、彼らと同じになってしまう。

そしてそのうち、組織の外に出た時、市場ではまったく通用しない人になっちゃっうんですよ。

何に評価されたいのか。
よーく考えて働きましょう。


「未来の働き方を考えよう」
個人では全く評価されない、名刺がなくては食べていけない人になってしまったら、組織にしがみつくしか生きて行く方法がなくなります。

人は市場から遠い場所で働く期間が長くなると、世の中から求められる能力や資質が伸ばせなくなります。

市場から離れたところで働いていると、新しい消費者が求めているものを理解できず、自分の持つスキルや知識がいつしか時代遅れのものになってしまうのです。

市場を意識できないような場所に長くいたら、将来的にはそんなメリットとは相殺できないくらい大きなダメージを受けてしまいます。
市場で生きていくための嗅覚やスキルを身につける機会を犠牲にして、充実した福利厚生を得たなどと喜んでいたら、お話にならないのです。

市場から稼ぐことができない人ばかりで構成される企業なんて、長くはもたないでしょう。


世間の評価基準ではなく、自分の評価基準で行動しよう
世間の評価基準は、実際にはかなりあやしげなものだ。
単に外野がイメージで語っているだけだ。

当事者しかわからない苦労なども当然あるわけで、そういうことまで考えた上で「自分の評価基準」で判断しないと、辛い状態に陥る。

人はひとりひとり全然違うということを忘れてはならない。

「世間一般の評価や反応」を知った後に、「では、自分ではどう思うか」と二段階で考えるようにする癖をつけるというのもいいかもしれない。
何から何まで、全部世間の評価・反応と一緒になるということは普通ないはずだ。

「世間のバイアス」を取り除いたほうが、結果的に人生は楽になると思う。
判断もシンプルにできる。

自分の人生なのだから、自分が一番嬉しくなるように最適化したほうが、楽しい一生になるのは間違いない。


ニューヨークで実感した「日本の看板を背負っている」ということ
世界の人々からは「日本人は誠実」「日本人は親切」という評価をいただくことが多いようです。
これは多くの日本人の言動によって作り上げられたものでしょう。

知識がないまま訪れた場合、渡航先で知らないうちにマナー違反をしていることもあるでしょう。
なかでも日本人には馴染みのないチップ文化に関するマナー違反は、多くの人がやってしまいがちだと思います。

私はそのことを知らず、チップを支払わずにレストランから出ようとしました。
その時、一緒にいた友人が教えてくれたので、非常識な観光客にならずに済みました。
もし支払わずに帰ってしまったら、店員さんに「日本人は非常識だ」と思われたかもしれません。

個人の小さな行動一つで、日本人全体のイメージが悪くなる可能性だってあるのです。

タクシーに乗った際、ドライバーからこんな嬉しい言葉をもらいました。
「日本人はとてもいい人だよね」

思わず満面の笑みがこぼれたと同時に

「多くの日本人が作り上げた『日本人はいい人』というイメージを壊してはいけない」
「私も日本の看板を背負っている一人なんだ」

という実感が湧きました。

日本にいても、どこにいても「日本の看板を背負っている一人」という自覚を持ち、自分の無責任な行動で評価を下げることがないように心掛けてきたいですね。


「未来を変えるちょっとしたヒント」
私たち人間は、「自分とは誰なのか?」といった哲学的な問いを抱えています。
自分ひとりでは「私はこのような人物だ」という断定ができません。

そこで、自分の周りにいる人々に注意を向け、彼らが自分の内面に対して下す評価に耳を傾けるのです。
ここには、「他者の方が自分の内面をわかるはず」という勘違いが存在しているのです。

そのような他者からの評価を聞いた当人は、「やはり自分とはそのような人間なのか」と、それまで漠然と感じていた自分の内面を再確認するか、「自分とはそのような人間だったのか」と、新たな真実を発見したかのような気持ちになります。

そして、どちらの場合にも、他者による評価に重きをおいて、「自分はこのような人物だ」という結論に達するのです。

こういった過程を通して到達した自己理解のことを、「自己のイメージ」と呼びます。
このイメージは、別の名を「ラベル」といいます。

ところが、このラベルは、思わぬ負の影響を私たちにもたらします。
他者に与えられたり、何気なく指摘されたりするラベルによって形成される自己のイメージが、重石になってしまうのです。

他者が与えるラベルは、彼らが体験している面だけを強調します。
それが一度自己イメージになってしまうと、そうでない自分が出せなくなっていってしまいます。

こうして、他の可能性に挑戦できなくなっていきます。
これまでの延長とは違った未来を創っていくことを、自分の鎧が不可能にしてしまうのです。

人や組織は「知らない」という状態を恐れるが、真に恐れるべきなのは「知った」という思い込みです。

「知った」と思ってしまうことにより、他の可能性に目が行かなくなってしまうからです。


「「ニート」って言うな!」
日本では、「習ったことを仕事にぴったり直結させる」という、一対一対応のようなものが理想とされがちであると同時に、他方では「学校で習ったことなんか仕事には全然役立たない、要は潜在能力や人柄なんだ」、というような、「教育の職業的意義」を全否定するような議論も強固で、この2つの両極端な「all or nothing」のいずれかに振れがちです。

それは不毛な考え方です。

学校で習ったことだけで十分なわけでは決してないけれども、それは確かな有効性を持っていて、あとからの変換や発展をも可能にするという、バランスのとれた発想が、日本では弱すぎるのです。

学校で学んだこととその後の仕事とが必ずしも一対一対応ではないかもしれないけれども、学校で仕事に関連する内容を学ぶことには重要な意味があるのだ、という発想を育てていく必要があるのです。


「この世でいちばん大事な「カネ」の話」
才能なんて、天賦のものではなくて、ほとんどあとからもらったものだと思う。

わたしだって、最初は自分に何ができるかなんて、ぜんぜんわかっちゃいなかった。
自分ができるかどうかなんて、やってみないとわからないよね。

自分のことをやる前から過大評価してると、せっかくのチャンスを逃してしまうかもしれないよ。

「才能」っていうのは、そんなふうに、自分だけじゃわからない、見えてないものだと思う。
自分で「こうだ」と思い込んでることって、案外、的外れだったりするからね。

私は思うのよ。
「才能」って、人から教えられるもんだって。


「なぜ社員はやる気をなくしているのか」
人は、そもそも完全無欠な存在ではない。
誰でも弱みや弱点を持っている。

生身の人間はいかに立派な人間であっても弱点を持っているのだが、それがまた人間らしいと言われる所以でもある。

だが、固定した理想像を前提とした人間観を唱えるようになると、中心になって唱えている人たちは、いつの間にか自分があたかもその理想像の申し子であるかのようにふるまいはじめる。

このような環境のもとでは、中身より形式ばかりを重んじる精神論が横行しやすい。

その結果、権威主義があらゆるところにはびこっていく。
これを温床に、官僚主義や大企業病が組織に蔓延していくのである。

引き算の人間観で人を判断すると、どうしてもまず欠点からその人を見がちである。

そうなると、表向き欠点の少なく見える、組織の論理に過剰適合した無難な人物の評価が、相対的に高まる傾向が強まる。

毒にも薬にもならないような無難な人間、言い換えれば「善意の抵抗勢力」が評価されるから、権威主義だってはびこるのだ。

問題意識が強かったり、事実に対して誠実であったりして、おかしいと思うことはおかしいと言ってしまうような人物は、多くの場合ポテンシャルがある。

ただ、こういう人物はあまり器用でなかったり、自分に正直すぎて「賢さ」がなかったりすることが多く、欠点が目立ちやすい。

賢く立ち回ることが苦手な人が多いのだ。
だから、引き算の人間観から見ると評価は低くなる。

退化を促進する価値観がはびこる組織から、この種の人材が次第にしなくなってしまうのには、このような理由があるのだ。

足し算の人間観を持つ人は、あるがままの人間をまずそのまま認めて、その人の「個性」を見つけ出そうと努力する。
既成概念にとらわれず、持ち味を見つけていこうとする。

足りない点を指摘することからはじめるのではなく、まず受け入れて、受け止めて、優れた特性を引き出そうとするのである。

変革に不可欠な人材は、「足し算の人間観」で高い評価を与えられる人材だ。

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うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???

「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」

という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?

ううーむ・・・

それぞれの言葉の意味がわからなければ
気づけないこと、気がつかないこともあるけど・・・

それぞれの言葉の意味だけを見ていても
それぞれの言葉の違いだけを見ていても

気づけないこと、気がつかないこともある


んじゃーないかな~???

なーんて、感じません? (^^)

ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・

まだ見えていないだけで・・・

意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪


のかも~???

なーんて、感じません? (〃▽〃)

どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?



★★★ ネクストストラテジーは、三方よし経営の黒子サポーターです ★★★
「ヒト(組織)」「情報(IT)」を中心に「三方よし経営」のお手伝いを行っております。
「戦略的な組織づくり」「戦略的な人材育成」などのご相談
首を長ぁーくして、お待ちして申し上げております。 (⌒人⌒)


【追伸1】
「・・・で、答えは何なの???」と思った方へ


よろしければ、以下の記事も見てやっていただけると嬉しいです。(^^)

「自分で考えて行動する「自律型人材」が育つ組織って?」ブログについて
答えが見つからない、探しても解決策が見つからない原因って何だろう?
手段の目的化とは?手法や方法論と目的や目標との関係って何だろう?
自律とは?自立とは?その違いって?自律型人材って何だろう?
誰にも相談しない、相談したくない、相談できない理由って何だろうか?
「自分で考える」と「独りで考える」って同じ?組織力などとの関係って何だろう?


【追伸2】
「三方よしって、何???」
という方は、よろしければ以下のページも見てやってもらえると嬉しいです。(^^)


三方よしって、何だろう?

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