2019年2月8日金曜日

雛型、テンプレート、フォーマットが役に立つ時、立たない時の違いって?

「役に立つ雛型って、なーんかないかな~??? (;´д⊂) 」
「便利で万能でどんな仕事にも使える雛型とかって、なーんかないかな~??? o( ̄_ ̄|||)o--- 」

「計画を立てるのに役立つオススメの雛型って何かないかな~??? (o´д`o)=3 」
「提案なんかを考える時に、いいテンプレートやいいフォーマットとかって何かないかな~??? (;´Д`)ノ 」

方針って普通はどんなのにするものなの???経営方針に使えるオススメの雛型って、なーんかないかな~??? (;゜∇゜) 」
「部門の方針なんかに使えて一般的で覚えさせやすくて浸透もさせやすくてキャッチフレーズにも使えるいいテンプレートやフォーマットって、なーんかないかな~??? ( ▽|||) 」

などなど、このような切実な声をお聞きすることもあるんですが・・・
(;´・ω・`)

んでもって・・・

「三方よしの経営相談」「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」「人材育成戦略(戦略的な人材育成)」「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などなどのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・

いろんな意味で、考えさせられるコトもあるんですけど・・・
ンーン (( ̄_ ̄*)(* ̄_ ̄)) ンーン

一見、全然関係ないように思えるかもしれないけど、コレってもしかしたら・・・

「日本の良さとは?外国人や海外経験のある日本人が感じる事って何だろう?」シリーズ
「日本人の強み・弱みとは?外国人には真似できない事、不思議な事って何?」シリーズ
「英語などの外国語の知識があればコミュニケーションってとれるんだろうか?」シリーズ
「海外と日本の生産性の違いとは?日本の生産性が低い原因って?」シリーズ

などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???

なーんて、感じることもあるので・・・ 

一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。

ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/

んーと・・・

まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?


■ 雛形とは?(雛型とは?)
コトバンク
① 実際の型を模して小さく作ったもの。模型
② 物の形式や様式を示す見本。手本
③ モデル


Weblio辞書
形式や書式などを示すための見本を指す表現。
文書の書き方を示した書式や、物の手本・模型・見本。


ニコニコ大百科
1. 他の物の形をかたどり、小さく作られたもの。模型のこと
2. ものの形式や様式を示した見本のこと。特に書類や文章などの書式について言われる。テンプレートのこと


■ テンプレートとは?
コトバンク
ワープロソフト定型文書を素早く作成するために用意する文書のひな形。

ワープロソフトや表計算ソフトなどのソフトウェアには、さまざまなテンプレートが用意されている。
フローチャートなどの図を作成するときに使用する定規から転じて呼ばれるようになった。


Weblio辞書
テンプレートとは、

(1) 頻繁に利用する定型のフォーマットで、計算式の埋め込まれた表計算ソフトの表項目や、はがきや帳票など、定型パターンの一部を変更して使用できるデータフォーマット
(2) 入出力、処理、分岐などを表すフローチャートの枠を書くための定規

のことである。


ニコニコ大百科
テンプレートとは、「雛形」を意味する英単語である。

同じ物を複製する時に利用される道具のこと。
略して、テンプレとも呼ばれる。

英単語のTemplateには「鋳型」「雛形」などの意味があり、コンピューター用語としては「同じ内容を複製する時の便利プログラム」のような意味でも使われる。
製図道具としては「同じ記号・図形を書くための定規・ステンシル」のこと。

だいたい「定型文」「複製されたように同じような文章・造形・物」などそういった意味で使われることが多い傾向にある。


ウィキペディア
テンプレートは、文書などのコンピュータデータを作成する上で雛形となるデータ。

最も抽象的なテンプレートは、レイアウトのみのデータで、テキストを流し込むことでレイアウトつき文書となる。
具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。

このほか、さまざまな段階がある。
テンプレートから文書を作る工程は、手動の場合も自動の場合もある。

元の意味は建築物の梁受けで、そこから、鋳型のように働くさまざまなものを意味するように派生した。

ワードプロセッサのテンプレートは、あらかじめ定型的な文章が用意されている。
それに名前など必要な部分を埋めこんだり書き換えたりすることによって、体裁の整った文書を簡単に作成することができる。

特に、日本では簡単な文書や、複雑な表組みを備えた帳票など、様々な種類の文書テンプレートが利用されている。

また、ワープロソフトのテンプレート以外でも、マイクロソフトのエクセル、パワーポイントを代表とした様々なビジネスソフトを利用して、伝票・帳票・宛名ラベル・はがきなどに印刷するため、それぞれのビジネスソフトのテンプレートファイルも利用されている。


■ フォーマットとは?
コトバンク
使われ方によって3つの意味がある。

1. ディスクの内容を消去し、OSがファイルを読み書きできるように基本情報を書き込むこと。「初期化」ともいう
2. パソコンで作成する書類の「書式設定」のこと
3. ファイルの種類、つまり「ファイル形式」のこと

なお、本来の意味は「書式(化)」であり2つ目の意味に近い。
どの意味で使われているかは文脈によって判断する。


ウィキペディア
フォーマットは、もともとは、型、体裁、書式といった意味。

1. 形式・様式。用紙、写真のサイズ等
2. 電子媒体(記録媒体)の記録形式、ディスクフォーマット(物理フォーマット)やファイルシステム(論理フォーマット)。ないしその形式化を実施すること
3. コンピュータで扱う文書、画像、動画などのさまざまなメディアのファイルを特定の利用方法やアプリケーションソフトウェアで共通に扱うための形式や規格のこと
4. 番組フォーマット - テレビ番組やラジオ番組、あるいはこれらに準ずるコンテンツにおける基本的な構成・様式
5. プログラミング言語で文字列を出力するための一定の形式やひな形、それを利用する関数や文など


■ 書式とは?
コトバンク
文字、文書の体裁文字あるいは文書の体裁のこと。
フォーマットやスタイルとも呼ばれる。


Weblio辞書
証書・届け書・願書など各種の文書の決まった書き方。


ウィキペディア
書式とは、文書における体裁を表現する語、および文字のスタイル(太字など)を表現する語である。


■ 様式とは?
goo辞書
1. ある範囲の事物・事柄に共通している一定の型・方法。スタイル
2. ある時代・流派の芸術作品を特徴づける表現形式
3. 習慣・約束などで定められたやり方


Weblio辞書
1. ある事物・事柄で共通している一定の型や方法のこと。
2. ある時代、流派の独自の表現形式のこと。
3. 習慣や決まりで定められたやり方。


■ 定型文とは?
goo辞書
手紙や電子メールなどで多く用いられる、一定の形式の文章。

時候の挨拶やお礼、お詫びなどの決まった言い回し。
テンプレート。


Weblio辞書
一定の決まった形式で書かれる文章。

定型の文章。
テンプレート。


■ 定型とは?
goo辞書
一定のかた。
決まったかた。


■ 形式とは?
goo辞書
1. 物事が存在するときに表に現れている形。外形
2. 物事を行うときの一定のやり方。事務上の手続き、儀礼的な交際などについていう
3. 形だけで実質の伴わないこと。おざなり
4. 芸術作品で主題・思想を表すために、作品を構成する諸要素を配置・配合する一定の手法
5. 哲学で、事物や事象の成立・発現のしかたやその構造、またそれらの関係などを抽象したもの


■ 体裁とは?
コトバンク
1. 外から見た感じ・ようす。外見。外観
2. 世間の人の目にうつる自分のかっこう。世間体。みえ
3. それらしい形式
4. 相手を喜ばせるような振る舞いや口先だけの言葉

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で・・・

次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?


「「儲ける仕組み」は社長がつくる」
社内にITシステムを構築するということは、ある意味、一人ひとりの社員が持っている、企業にとって大切な情報を体系的に蓄積し、会社の経営資源にしていくということです。

さらにそれを社員全員で共有できるようになれば、経営が変わるのも当然のこと。
蓄積したデータを有効活用することこそ、IT化本来の意義なのです。

システム化されていない状況では、例えば納品書は手書きの伝票で、その集計はエクセルでなどと、フォーマットもばらばら。

これでは、いざ必要な情報を取り出す段になると、とても手間がかかります。

紙媒体では、情報の再利用は難しいですし、それぞれの担当者が、思い思いのフォーマットで集計表を作成しているとなると、経営者が全社的なデータを把握するのに、さらにもう一段、データの加工が必要となります。

「支店ごとに、売上を集計しています」などという場合には、全社のデータを集計するたに、担当者が四苦八苦していたりするのではないでしょうか。


「共創とは何か」
いわゆる仕事と言われるようなものは、企業にも社会にもいっぱいあるわけです。

一つには、定型的な仕事というものがございますね。
代表的なのは、お役所の窓口業務とか登記の業務なんかがそうだと思います。

あれは、定型的に、決まったようにきちんとやることに価値がありまして、市役所の窓口で創意工夫してじゃんじゃんフォーマットを替えられたんでは、たまったものじゃないわけです。

ただ、そういう仕事は、フォーマットもちゃんとありますし手順もきちっと決まっていますから、「こういうふうにやるんですよ」というのは、かなりはっきり言えるわけです。

それから、企業で大変多くありますのは、いわゆる改善的な仕事と申しましょうか、「今あるものをもっと良くしよう」とか「今ある仕組みを変えよう」。

これも定型的というほどきちんとしていませんけども、手順は言うことができると思うんです。

最初に現状分析をちゃんとやれ、目標を立てましょう。
PDCA、基本的にはフィードバックをやっていくことですから、それぞれの部分には工夫が必要にしても、大まかな手順は言えます。

じゃあ「創造的な仕事ってどうやってやるの」、こう言われると、一気に詰まっちゃうんです。

至る所に「創造」というポスターとか垂れ幕がいっぱいあるんですよ。
「創造的職場にしよう」とか「創造性ある商品を」うんぬんと、たくさんあります。

でもそこで、例えば新しい社員に「あそこにああ書いてありますけど、どうしろと言うんですか」と言われると、答えにくいんですよね、極めて。


「中期経営計画の立て方・使い方」
何事もそうだが、人の真似をしたり体裁だけを整えても意味がない。
そのようなものなら、かえってないほうがましである。

なぜなら、すぐに化けの皮がはがれて信用・信頼をなくすし、無駄な投資のもとになったりするからだ。
本当に中身のある経営計画であれば、それほど体裁が整っていなくても、十分機能するであろう。

すぐれた経営計画は、体裁が整っていると思われがちだが、そうではない。
体裁だけの経営計画は意味がない。

それよりも重要なことがある。
それは、社内でよくもまれたかどうかだ。

トップの考えが下に浸透しないで、言葉だけになっていたり、現場の実態が上に伝わらず、現場から乖離したものになっていたりすると、その時点で、経営計画はあまり用をなさなくなる。


「なぜ会社は変われないのか」
日本的な物事の決め方というのは、みんなで合議して、お互いに納得できる話し合いができる時はいいが、それができない時は時間切れになって、しかたなく

「とりあえず」
「いちおう」

決めたかたちをとっておく。
曖昧な中身をもちながら形式的な要件だけを整えておくのである。

しかし「とりあえず決めたこと」というのは気持ちのうえでは暫定的なものだから、具体的な実効力をもって展開していかない。

決めたといっても妥協の産物のような決め方だから、話し合ったその当の本人が決まった内容をそれほど重視しているわけではないし、周りも同じようにその内容を信用していない。

さらに問題なのは、誰も「責任をもってフォローする状態になっていない」という点である。
形式上の責任者はいるがフォローがない。

これは責任の範囲が不明確というような問題ではなく、そもそも実質的な意味での責任というものが存在するのかどうか、という問題なのである。

また、過去に不祥事などが起きた経験をもつ企業の場合などは特にそうなのだが、過剰に意思決定のミスを恐れ、何でもかんでも上におうかがいを立てるのが当たり前という習慣になってしまっているケースがある。

本来、下のレベルで判断すべき案件を、上におうかがいを立てるということがいつも行われていると、待ちの姿勢が蔓延し、意思決定の能力をもつ人間がいなくなってしまう。

つまり、上におうかがいを立てることで下は責任を上に預け、上は意思決定に関わっていながらも、直接担当していることではないから、責任は本気で感じていないということが起こり得る。

合議で何かを決めるという決め方の問題も含めて、こういう場面で問題なのは、形式上の責任者の有無ではなくて「誰も心の底から責任を感じていない」という事実なのだ。


「なぜ社員はやる気をなくしているのか」
「意識改革」なるものの研修が本当に効果をもたらしたという話を、いまだかつて聞いたことがない。

そもそも、官製談合を「誰でも知っているみんなの秘密」として当たり前のようにやっている組織で、事の本質にかかわるような話には蓋をしたまま、研修できれいごとの「あるべき論」を説教し、それをもっと「意識改革」などと称するのはあまりにも空々しい。

上から言われたから形にだけはしなくては、といった程度の熱意しか感じ取ることができなかったら、そんなことはやるだけ無駄だ。

こういう組織には担当者の熱意などではどうにもならない別次元の根深い問題が横たわっている。
このような組織で大切にされるのは中身ではなく形式だ。

会議であっても、中身はともかく、それをやったという形がまず大事なのだ。
こういう世界の中では、人間も儀式の中の道具だてのひとつになる。

しかし、このようなやり方に慣れきった人たちは、この種の「儀式」を「ディスカッション」と称して、大まじめにずっとやってきたのだ。

中身がまったくないこのような儀式を、誰もおかしいと思わず仕事としてとり行ってきたのである。

内容よりも形式を重視する傾向の強い人たちは、人も道具だてのひとつとして見ているから、役職だとか肩書きに意味は見出しても、「内発的な動機」が果たす役割などには、そもそも興味すら持たない。

命令さえすれば動く「道具」が内発的動機など持つ必要性があるわけないからだ。
道具に人の情熱など、そもそも必要としないから、内発的動機など無視してもいっこうにかまわないのである。

人を、中身(たとえば、考えや意見、関心の有無)で評価するのではなく、その属性(地位や役割)で見る、という考え方を持っていると、人の内発的動機に対する関心はおのずと小さくならざるをえなくなる。

儀式としての体裁を整えることを大切にする人たちが重きを置いているのは、つねに内容よりも形式であり、事実ではなく精神論である。

そして、このような考え方、価値観が当たり前になっていることが、日本という国が今日抱えているさまざまな困難な問題を引き起こしている根源的な要因だと考えている。

事実を直視し、現実と向き合おうとしない国に未来はない。

目指す方向や方針がいかに立派につくられていても、それだけで改革が成し遂げられていくわけではない。


「考え抜く社員を増やせ!」
今の会社には「命じられたことはやる。仕事というのはそういうもの」という割り切りをしている人がけっこういます。
一般社員だけではなく管理職の中にもこういう人がたくさんいるのです。

こうした考え方はある意味、「自分自身をも部品として捉えている」ということからみても、人間を人間として見るより機械として見る色合いの強い考え方です。

能力や資質などという要素を介在させず、ただ員数として人を捉えるのです。

自分をも含め、人というのは命ずることで自在に動かせるコマであり、道具である。
単なる員数であると、きわめてドライに割り切っています。

こういう気持ちになり切ってしまうと、「自分自身を見直す余裕」も失われてしまいます。
自分自身をも部品として捉える、という考え方に立つと、人の問題は「人 = 員数」としてかたづけられてしまいます。

しかし、現実の多くの仕事では、3人部下がいる場合、能力のある3人と、能力のない3人とでは、パフォーマンスがまったく異なる、ということは誰にでも理解できます。

にもかかわらず、従来からある常識的な見方では、基本的に人間のクオリティはカウントせず、すべて「員数」で見るという傾向があったのです。

こうしたものの見方の持つ一番の問題点は、物事や出来事の価値、質、その持っている意味などを、思考の対象から外してしまうところにあります。

質ではなく数えやすい量が重視され、中身ではなく、形式が大切にされます。
物事の価値や意味、つまり、

「なんのために」
「どういう意味があるのか」

を問う姿勢もこうした世界では後ろに追いやられてしまいます。
こうしていつの間にか「どうやればいいのか」「どうやると効率的か」しか考えなくなってしまうのです。

ひたすら目先の利益の最大化だけを追い求め、そのことの意味や価値を問わず、「どうやるか」しか考えないとするなら、環境激変時の対応策にしても、何が原因でそうなったかは問いませんから、どうしてもモグラ叩き的なアイデアしか浮かんでこなくなってしまうのです。

目先の課題の処理以外に、考えのをやめてしまっている人は、制約条件のくびきから逃れられなくなっています。
枠の中に思考が閉じ込められてしまうと、少し考えれば当たり前のことが、どうしても考えられなくなってしまうということです。

こういう状況に陥ってしまうと、問題点のリストアップだけはきれいにするけれども、解決はされていかないから毎年同じリストを作っておしまい、ということが起こります。

「上司から言われたことを効率的にこなす」のが仕事だ、と思っているときは、「仕事を処理する」ことが、あたかも最終目的のようになってしまいます。

本来の目指すべき目的が意識されていないと、形を整えたらそれでよしとされます。

こういう状態でも忙しく仕事をしていると、何がしかの自己満足だけはあるので、かえって問題は顕在化しにくいのです。

中期計画というのは、なんのために作るのでしょう。

その意味や目的を問うのではなく、どう「立派な」もしくは「立派に見える」中期計画を作るのかが仕事だ、というスタンスならば、それほど難しい話ではありません。

実効性は問わない、というか、実際に使われるかどうかは保障の限りにあらずという暗黙の前提の下でなら、作るのは難しくはない、ということです。

残念なことに、多くの日本の企業では、その意味や目的を問わないこういう仕事のやり方が今でも普通に行われています。

中期計画作りにかかわる人はスキルだけは学んでいますから知識は十分に持っています。
しかし、「なんのために」という基本的な問いは欠けたままです。

その結果、時間とコストをかけて形のうえでは立派に作られたはずの中期計画が、ほとんどの人にとって関心外の出来事、つまり目の前の仕事とは無関係の計画、になってしまっています。

現実に仕事の指針として機能しているとはとても言いがたいというのが多くの企業での実態なのです。

どうやるか、しか考えていないと、意味や目的を問い直すという根源的な問いかけをする能力がしだいに減退していきます。
その結果、そういうことを考えること自体が苦手になります。

本質的なことを掘り下げて考えることができなくなってしまうのは、当たり前です。


「「サービス」の常識」
昨今、多くの企業で行われているのは「顧客満足度の調査」や「実態把握型のマーケティング調査」である。
物事には長所と短所があるが、この満足度調査にもいくつかの問題点がある。

まず、どの企業でも一定のパターン化されたフォーマットで行うことが多い。
満足度の点数が高いと偉い人たちは大喜びする。

その結果、意識的であれ無意識的にであれ、最初からよい点数が出るような調査設計をするという、本末転倒な方向に進んでしまうことが意外に多いのである。

だから、点数は毎年上昇しているにもかかわらず、業績は低迷、ないしは下降線をたどるなどという、おかしな現象が多発するのだ。

一方、マーケティングの調査を行う企業も多い。
これは事実の確認、実態把握などを行うためのものだが、集まった回答を見ると

「まさにその通り」
「間違いない」
「日頃から感じている通り」

などとすでに知っていることの確認、現状把握になるだけで、

「次の一手をどうするか」
「顧客の意識化に潜んでいるニーズ

についてはまるで見えてこない。

結果、時間と費用をかけたにもかかわらず、そのまま棚の奥へ、というもったいない事態が横行している。

つまり、このような調査方法からは、一番大事なはずの

「顧客の潜在意識の把握」
「顧客のニーズ

が見えてこないのである。

コンプライアンス、CSRについて、企業内に委員会を設置し、規約を作り、内部統制資料を作成するなど、形式を整えるだけの話にしかならないケースが多く見受けられる。

そして、「当社の工場の規格に合格しています」「業界の平均値です」「企業内のマニュアル・規則からはずれていません」などの台詞で逃げようとする。

これでは単に画一的にパターン化することで、自分たちが楽をしているに過ぎない。

企業・組織の中に委員会を設け、本来の企業理念、企業倫理、経営哲学を中核として、組織の全員が取り組んでいたなら、恐らくこれらの問題、トラブル、事件・事故は起きなかったはずである。

それが○○委員会という形式的な点の活動で終わってしまっているところが問題なのである。


「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」
部下の昇給や総合評価の決定は、上司の裁量に任される部分が大きい。

上司と部下が本当によい関係にあれば、面談の際も互いに心を開き、よくできた部分とできなかった部分を振り返り、今後どうしたらさらによい形で一緒に仕事ができるかについても話し合える場となる。

けれども悪い上司につけば、面談の際は悪いところばかり指摘される。

そもそも、他人に評価されること自体に不自然なところがある。
職場以外のどんな場で、相手の能力を評価したりするだろうか?

最悪なのは、評価スコアのせいで、上司と部下で本当に意味のある会話ができなくなってしまうことだ。
評価が気になるあまり、どうやったら一緒にもっとよい仕事ができるか、という実のある話ができなくなってしまうのだ。

社員一人ひとりの業績を伸ばすには、各自に合った方法を採るしかない。

評価の書式も会議の議題もチェックリストも公式も、すべてが標準化された万人向けのアプローチなど、「標準化された社員」には役立つかもしれないが、あいにくそんな社員には出会ったためしがない。


“目的”より“やり方”へのこだわり
日本人に仕事をお願いした時、彼らは、

“WHY――なぜ、何のためにやるのか?”よりも、
“HOW――どうやるのか?”

をえらく気にしていたよ。
どの様式にどう書いて誰にどうやってて提出したらいいのか、と何回も聞いてきた。

逆に、日本人が人に何かをお願いする時は、WHYがなくてHOWだけ説明がある場合が多い。
WHY?と聞くと、答えが返ってこないか、曖昧だったりするんだよね。

それはたぶん、その人自身も知らないか、考えたこともないからだろうね。

もしかしたら……上司からWHYの説明なしにこれを頼まれた。
その上司も、そのまた上司からWHYの説明なしに頼まれた……

つまり指示の流れの中で、誰もWHYを深く考えずに、HOWだけがくっついてきた可能性もあるね。

いずれにせよ、日本人は、HOW(やり方)と、前述した組織のルール、しかも細かいものを必要とする。
そして、それに従おうとする。

だから日本の組織では、細かい業務マニュアルが多くなり、それを作ったり改訂したりするのに莫大な労力、時間、コストがかかるんだね。

それで全体の業務効率が良くなればいいが、問題は、マニュアルが劣化していることだよ。
時代錯誤のやり方が残っていたり、業務の現実に即した新しいやり方が加わっていないことがある。

じゃあなぜ、劣化したマニュアルを変えようとしないの?
3つ理由があると思う。

1つは、日本人は組織のルールに厳密に従う。
例え劣化していてもマニュアルはルールだ。

2つ目は、劣化そのものに気づかいない人がいる。
長年同じ会社の中でのマニュアル作業に慣れてしまい、

『なぜ、これやらなきゃならないの?』
『本当にこれでいいの?』
『他にいいやり方があるのでは?』

という批判的思考をしないからだろう。

3つ目は事なかれ主義だ。
ルールに従ってさえいれば、誰からもお咎めを受けない。

自分の立場が悪くなるリスクを負って、ただでさえ重たい業務量をさらに増やしてまで、ルールを変えてやろうという元気と勇気が湧かないのだろう。

本来、作業効率を高めるための業務マニュアルが、逆に余計な意味のない仕事を増やし、長時間労働に拍車をかける……

なんと皮肉な話だろう。


国の助成金を狙って詐欺師が暗躍する
実際には存在しない会社、存在しない従業員をでっち上げて不正受給したわけで、この手の犯罪はたびたび起きている。

いや、もっとはっきり言えば、こうした国による助成制度ができた場合、必ず起きているのだ。

行政による助成金制度ができると、詐欺師たちは色めきたつ。
それにははっきりとした理由がある。

実際、過去に起きた事件で「コーチ屋」(助成金受給の指導を行い、成功報酬を受け取る)をした人間は言う。

「お上のやる事って言うのは結局は形式的だからね」
「つまりさ、ペーパーさえちゃんとそろってればいいんだよ。形式さえ踏んでれば大丈夫」
「もちろん、どこをチェックするかっていうのがあるから、それを俺らが教えてやったわけ」

「現場をチェックに来るから、そういう場合には会社なり工場なりの用意が必要になる」
「でも、それも簡単でさ。潰れそうな工場や休業している会社を探せばいいだけ」

「そこの経営者に話をつければ、チェックのときだけ稼働しているように見せるのは簡単だ」
「従業員なんて、日当払えばいくらでも集められるじゃないか」

この呆れた言い分が実際に罷り通っているのが現実なのである。

助成金は融資ではない。
「返す必要がない」という発想がこうした詐欺につながっているのである。

助成金詐取の場合、被害者は国であるが、その国の予算は国民の税金であり、つまるところ我々全員が被害者になっていることを忘れてはいけない。


「形」を過剰に重んじる日本社会
古来より日本には「形を習得すれば、中身はついてくる」という哲学感があるのは事実であります。
しかしそれは

「体裁だけ整えておけば中身はいらない」
「むしろ、外形の方が大切」

という風潮を産み、深い厄災を日本社会に産出し続けているのも事実ではないでしょうか?

「形を持ち得なかった者が戦場に立ったこと自体が悪」

と考える風潮には正直困惑しています。

存分の力があったにも関わらず、「形」を持ち得なかったばかりに戦場にすら立てなかったのならば、さながら、戦場には鎧だけ豪華でまるで使い物にならない武者ばかりが跋扈している…ような側面がある気がしませんか?

今の日本てそんな甘い事言っていられる様な状態なのでしょうか?


“考えず、従う”姿勢が生む「国民総残業社会」
日本人の仕事に時間がかかる理由の1つには、“ハイ・コンテクスト文化”もあるね。
彼らは、言葉少なに曖昧かつ間接的な表現で、互いの考えや気持ちを察し合う傾向がある。

逆に言うと、自分の言いたいこと全てを直接的かつ論理的に相手に伝えるのが苦手ということだ。
会議を議論と決断の場にしても、ほとんどの人は発言しない形式的な会議になっちゃうだろうね。

理由は2つある。

1つは、どうやら確固たる自分の意見を持たない人が多いらしいこと。

たぶん好奇心や参加意識が薄いか、人から意見を聞かれることが少ないから、自分のアタマで考えなくなっているのかもしれない。

2つ目は、考えがあっても、それが議論の中で他のメンバーと衝突することを避けるせい。

彼らは、衝突して人間関係が悪くなる、組織の中で自分の立場が悪くなる、組織の雰囲気が悪くなるのが怖いんだよ。

彼らの多くは、自分(個人)の考えとか信念に従って行動しない。
少なくとも会社の中ではね。

その結果、互いに理解不足で中途半端なコンセンサスが形成される。

動き出した後に、関係者と話がうまくかみ合わなかったり、人間関係がギクシャクしたり、無関心な人任せの社員が増えたりしているらしい。

心のすり合わせが大切な国で、それができなくなってくる……

日本企業の競争力の源泉だったチームワークが、崩れかけているとも言えるかもね。


組織の閉塞感を打ち破る方法
ルールの厳格化と業務の定型化はいっそう拍車がかかっているように見える。

ルールが想定していないケースが起こればルールを作り、抵触するようなことが起こればいっそう運用を厳格にしようとする。
クレームが起こるたびに、ミスが発生するたびに、マニュアルはどんどん分厚くなっていく。

結果、萎縮や閉塞感を生じさせているのに、そして、薄々はそれが問題だと感じているのに止められない。

企業におけるルールの厳格化と業務の定型化は、まるで、やり始めたら止められない公共工事のように見える。

冷静な総括と真摯な反省を行い、その上で、例えば自由と寛容といったパラダイムから、新たな組織運営に舵を切ること以外に、組織の活性化も人の成長も期待できないだろう。


「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
これまでのように消費者ニーズが画一化されていた時代には、画一的な商品を大量に生産していればよかった。
そして、そうした時代には、定型的でまとまりのよい集団が、その威力を発揮してきた。

しかし、ニーズが多様化して、それに応じた多種類の少量生産という小回りのきく生産体制には、集団主義的な行動様式はマイナスに働くことになる。

今日求められていることは、集団でどのように行動するかではなく、個人個人がそれぞれの能力や特性を発揮し、その総合力をどのように発揮していくのか、ということである。

こうした企業を取り巻く環境の急激な変化にともなう職場環境の変化が、これまでの制度や意識との間に大きな軋みを生み出しているのである。

つまり、日本企業の特質とされてきたものが、今後どのように変化すべきかということが問われているということである。

それは、見方を変えれば、新旧の価値観の衝突ととらえることもできる。

一般的な言い方をすれば、協調性というのは、定型化した仕事のやり方の中では発揮されやすい。
つまり、段取りが決まっていて、お互いに役割分担がはっきりしていれば、協力関係が作りやすく、協調性も発揮しやすいものとなる。

日本の企業社会は、一種のセレモニー化した規範を確立して協調性を大切にしてきた。
そして、こうした企業内の協調性を土台にした人間関係が集団主義を支えてきた。

しかし、この一見まさに集団主義的で協調的に見える行動も、その基準は実は自分の打算によっている。

一見企業へのロイヤリティを軸にした統一した行動に見えても、その原理となっているのは、その行動が己の打算にかなうかどうかである。

つまり、個人としては嫌であっても、出世や仕事にいい効果をもたらすということで参加してきた。
自分だけが仲間と違う行動を取るのはまずいという判断で、自分を殺して参加していることが多かった。

逆に言えば、拒否が自らの利益につながらない場合や、そうした利益を無視しても参加したくない譲れない哲学がある場合には、拒否することもあるだろうということである。

日本人の多くは、実は自分自身は集団主義的な人間だなどとは思っていないという不思議な現実がある。
むしろ、個人個人に聞けば、「日本的集団主義には辟易していて、何とかそういう呪縛から自由になりたかった」などと語ることが多い。

それどころか、「日本人全体が集団主義である」ことは認めても、「自分は、そうした生き方に仕方なく従っているが、本当は違う」と感じている人のほうが多いのが現実であろう。

今、職場に起きていることは、集団主義の揺らぎに対しては「以前から望んでいなかったことだから」と肯定しつつも、今度は「そうは言っても個人主義的に飛び出した行動をすることが本当に利益なのかどうか」を見定めている状態なのだと言ってもいい。

まさに、職場は今、集団主義から個人主義、そして年功序列から成果主義を典型とする変化を前に、自らがどのように協調性を発揮すればいいのか分からず、立ちすくんでる状態なのだ。

古い価値観の集団主義や協調性というしがらみを捨てようとしながらも、なお、その一方でしがみつくという混乱と矛盾の中にいるのだと言ってもいい。


「ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪」
労働者を安く長く働かせる「ブラック企業」では、労働者が自発的に辞めることは許されない。

企業が辞めさせたいと思ったときにはあっさり解雇されるものだが、特に企業の考えていたタイミングの離職でもなく、労働者が「壊れて」いないうちには、ブラック企業は労働者を辞めさせようとしない。

「後続が決まるまで勤めなさい」
「あなたを雇うためにかかった手間の分は働いてもらう」

など、色々な理由をつけて労働者が会社を離れられないようにする。

退職手続きだけ済ませて働かせていた会社もある。
書面ではもう雇っていない形式を整えて、実質的にただ働きさせるのである。

会社の「辞めるな」という言葉に付き合って、結局身体を壊すまで働いてしまう人もいる。

ブラック企業が辞めるなと言ったとしても、法律では労働者は辞めることができる権利を保障されている。
辞められなければ奴隷と同じだからだ。

ブラック企業の行う退職勧奨では、いじめ、嫌がらせ、パワーハラスメントによって、自ら辞めるように仕向けていく。

本来、退職勧奨はしつこく行ったり、やり方が暴力的であったりする場合、同意を求める「勧奨」とはみなされずに、退職強要であるとされる。
退職の強要に至った場合には、たとえ「同意」の形式をとったとしても、それは無効であるし、損害賠償の請求も可能だ。

ブラック企業はここまで熟知して、ただ退職を求めるのではなく、自己都合退職を自ら行うように追い込むのである。

これによって、退職を要求したという形式すら失われ、訴訟のリスクを極限まで引き下げることができる。
このため、統計上は、早期離職した者のほとんどが自己都合退職扱いとなっている。

その上、自己都合退職に至ってしまった者は、雇用保険上「自分から辞めた者」として社会的制裁を与えられることになる。


「機械との競争」
コンピュータは、パターン認識や複雑なコミュニケーションなど、これまで人間が独占してきた領域を侵食しつつある。
コンピュータは急速にいま挙げた能力を獲得しつつある。

こうしたデジタル技術の進歩がビジネスの世界に与える影響は、誰もが目にしているはずだ。

たとえばカスタマーサービス係に代わってバーチャルアシスタントが導入され、売店やスーパーマーケットではセルフレジが普及してレジ係の需要が減りつつある。

いまやiPodから水着、金貨、サングラス、カミソリまで自動販売機で買える時代だ。
また商品情報は、店員に聞かなくても店に備えられたタッチスクリーンで入手できる。
自販機のコストは、実店舗と比べたら微々たるものだ。

こうした動きは、消費者の購買習慣を反映したものとも言える。
インターネット通販の浸透に伴い、セールスマンや店員がいないところでモノを買うことにすっかり違和感がなくなっている。

パターン認識も複雑なコミュニケーションもいまや自動化が可能だとなれば、人間の能力でコンピュータに脅かされないものは、何があるのだろうか。

人間がしかるべき比較優位を維持できるものは何だろうか。

いまのところ人間がまさっているのは、じつは肉体労働の分野である。
人型ロボットはまだひどく原始的で、こまかい運動機能はお粗末だし、階段を転げ落ちたりする。

それに、肉体労働の多くが実際には高度な知的能力をも必要とする。
純粋な知的労働の分野、すなわち肉体労働を一切伴わない分野にも、コンピュータにまだ侵されていない重要な領域がある。

コンピュータはパターン認識にすぐれていることは示したものの、問題解決に関してはかなりお粗末と言わざるを得ない。
なにしろ、誰かがプログラミングをしてデータを入力してやらないとだめなのである。

また、コンピュータのパワーとスピードをもってしても、創造性ということになるとほとんど能がない。
いくつか例外も見受けられるが、それでさえ創造性の欠如を裏づけるようなものである。

定型的で無味乾燥な文章を自動作成することと、独創的な文章をゼロから書き上げることとの間には天と地ほどの違いがある。

コンピュータは定型的な処理、反復的な計算、一貫性の維持といった面では圧倒的に強い。
さらに、複雑なコミュニケーションやパターンマッチングといった面でも急速にレベルアップしている。

だが、コンピュータには直感も創造性も備わっていない。
あらかじめ決められた領域から少しでもはみ出す仕事を命じられたら、もうできないのである。

幸いなことに、人間はまさにコンピュータが弱いところに強い。
したがって、お互いにすばらしいパートナーになる可能性は十分にある。

このパートナーシップがうまくゆけば、コンピュータにいいところをすべて攫われるという心配はあまりなくなるだろう。

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うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???

「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」

という方も、いらっしゃれば・・・

「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」

という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?

他にも、例えば・・・

全体像を把握すると気づく事、俯瞰しないと気づけない事って何だろう?
「根本的な原因とは?真因とは?今見えている問題って本当の問題?」シリーズ
「顧客とは何か?お客様って誰?等について考えてみると気づく事って何?」シリーズ
指示待ち人間やマニュアル人間になる組織とそうでない組織の違いって?
「何のためにマニュアルをつくるのか?誰のためのマニュアル作成?」シリーズ
「人材育成とは?何のための人材育成?戦略的な人材育成って何だろう?」シリーズ
人材育成をマーケティング・コンセプトから考えると気づく事って何だろう?
「人材育成で効果が出る事、人材育成では効果が出ない事って何だろう?」シリーズ
「人材採用とは?従業員を雇用するのは何のため?誰のためなんだろう?」シリーズ
「組織だからこそできること、組織でなくてもできることって何だろう?」シリーズ

などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)

ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・

まだ見えていないだけで・・・

意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪


のかも~???

なーんて、感じません? (〃▽〃)

どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?




★★★ ネクストストラテジーは、三方よし経営の黒子サポーターです ★★★
「ヒト(組織)」「情報(IT)」を中心に「三方よし経営」のお手伝いを行っております。
「戦略的な組織づくり」「戦略的な人材育成」などのご相談
首を長ぁーくして、お待ちして申し上げております。 (⌒人⌒)


【追伸1】
「・・・で、答えは何なの???」と思った方へ


よろしければ、以下の記事も見てやっていただけると嬉しいです。(^^)

「自分で考えて行動する「自律型人材」が育つ組織って?」ブログについて
答えが見つからない、探しても解決策が見つからない原因って何だろう?
手段の目的化とは?手法や方法論と目的や目標との関係って何だろう?
自律とは?自立とは?その違いって?自律型人材って何だろう?
誰にも相談しない、相談したくない、相談できない理由って何だろうか?
「自分で考える」と「独りで考える」って同じ?組織力などとの関係って何だろう?


【追伸2】
「三方よしって、何???」
という方は、よろしければ以下のページも見てやってもらえると嬉しいです。(^^)


三方よしって、何だろう?

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